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「つーか、俺の時計が狂ってなきゃ、間違いなく海外っすよ」
銀山はひどく不機嫌そうに呟いたが、心細さを隠すための虚勢だろうと賀子は思った。この
状況、別に泣いて喚いたところで誰も責めないが、二十歳の青年らしい見栄なのだろう。
彼が差し出した腕時計には、デジタル表示で『2009/06/22/04:07』とある。午前四時。外の明
るさからして日中だと賀子は思っていたが、まあつまり、そういうことなのだろう。
「少なくとも鳥取砂丘ではないわね」
呟いた賀子を、女子中学生、奈津が振り向いた。
「わ……判らないじゃないですか。時計が壊れてるとか」
「私の時計も四時過ぎですから。夕方四時なら、まだこのくらい明るいこともあるのかと思って
いたけど、彼の時計が十二時間きっかりずれていると考えるのは、ちょっと」
奈津がテーブルに突っ伏してすすり泣き始めた。全員、何とも言われぬ心境でそれを見て、
それぞれに溜め息を吐いた。
賀子の描いた館内地図を睨んでいた会社員志度が、ぐったりとした声で言った。
「何だって、こんなことになってるんだ」
この場にいる全員がそう思っている。七人の日本人、互いに面識のある者は一人もない。出
身地も北は北海道、南は九州までバラバラだ。
「とりあえず、それぞれ自分の情報を出さんかね。ここで目が覚める前の記憶とか」
眉間を揉みながらの井上の提案に、異を唱える者はいなかった。そういったことは一通り話
してはいたが、全員の情報が全員に行き渡っている訳ではない。
席順から左回り、言い出した井上から語ることになり、場は暫時、議会の空気となった。ちら
ちらと自分の腕時計――オメガだろうと賀子は推察した――に目を落としながら、井上が話し 始める。
「私は、家に帰る途中だった。いつもと同じ電車だったから、夜の十時くらいだな。駅から家に
帰ろうとして――帰った、のかな。いや、ううん」
「お宅までは徒歩なんですか?」
賀子の問いに頷く。
「十分掛からないくらいだからな。ううん、少なくとも駅を出たのは間違いないと思う」
「そこから記憶が曖昧だと」
「そうだな。二十一日だったのは間違いない。ええと、湯田賀子さんか。あなたは?」
「私も仕事帰りで、これから電車に乗るところだった……気がします。確か九時頃」
人のまばらな地下鉄のホームで、いつもの電車を待っていた。雨が降りそうだったから早く帰
りたい、と考えたことを覚えている。雨が降っていたのかどうか、覚えていないところから考える と、電車を降りてはいないのだと思う。乗ったかどうかは思い出せなかった。
それらを率直に伝えて、隣の水野老人に話を回す。彼は友人の家から帰宅する道から、や
はり記憶がぼやけているのだと語った。銀山もやはり学校帰りの道で。時間は夜の七時から 九時の間。
次の奈津で、少し話の毛色が変わった。
「家に……いた、と思います。自分の部屋に。夜の、十時くらいですから、寝る以外のことはし
ません」
隣の志度が、斜めの角度から奈津の顔を覗き込んだ。
「自分の部屋? 間違いない?」
「少なくとも、それより早い時間ということは……ないです。それで、その時間なら、もう部屋か
らは出ないから。その、パジャマだし」
と言って自分の服装を示す。賀子もずっと気になってはいたが、他の者が制服やスーツ、普
通の私服を着込んでいる中で、彼女だけが寝巻き姿だ。
「トイレに出たりは?」
「自分の部屋にありますから」
「んん……。僕たちが拉致みたいな形で連れて来られたとしたら、君の場合、部屋に侵入され
たってことになるのかな」
「それは」
奈津は一度言葉を切って、困ったように眉を寄せた。自分の指先を見つめながら、爪を擦り
合わせるようにする。
「……うちはその、警備の人がいますから。泥棒とか、そういう人が入れば、すぐ判ると……思
います。変なところから人が入ってきたら、警備会社にも、連絡が行くし」
「ああ、お嬢様なんだっけ。君の部屋は何階?」
「二階です。あ、下にガレージがあるから、普通に言えば三階です」
その事実がどういう結果を示唆するのかは、誰にも見えなかった。アサヒ電気社長の邸宅、
有人警備でセキュリティシステムは万全。それはつまり、どういうことなのか。
「いま考えても仕方なかろう。あんた、因幡さんか。あんたはどうだね?」
水野の音頭で因幡に話が移る。その際立って顔色の悪い中年女性は、篭もった声でぼそぼ
そと語った。
「たぶん七時は過ぎてたと思います。私のところは……埼玉なんですけど。雨が降っていて。主
人を迎えに、傘を持って家を出て」
「やはりその途中で曖昧に?」
「……はい。すみません」
奈津を除いては、全員似たようなものである。暴漢に襲われたという記憶はないが、現状を
考えるに、そう考えるよりない気がする。服用すると前後の記憶が曖昧になる睡眠薬なども存 在するのだそうだし、その類のものを使用されたのかも知れない。
問題は奈津だ。犯人の姿や規模に影響してくる情報は、彼女の証言にのみある気がする。
「問題は奈津ちゃんだな」
賀子の思考と全く同じ言葉で、水野がそう云った。
「日本全国から七人。名士の娘とか弁護士とか、社会的地位の高いモンもいる。こりゃ、そこら
のケチな営利誘拐とか、そんなこっちゃねえぞ」
「社会的地位が高くなけりゃ、営利誘拐として旨みがねえんじゃねえか」
「いや」
銀山の指摘を井上が遮った。
「それなら旭君だけ誘拐すればいいだろう。うちだって弁護士といっても、それほど桁外れに裕
福な訳でもないし――そもそもからして、七人もまとめて拉致するなんて、変だ」
「変ですよね」
志度が生真面目に相槌を打った。
「旭さんの話を信用すると、犯人は高い水準のセキュリティを潜り抜けたことになります。伊達
や酔狂にしては度が過ぎてる」
若いくせに歌舞伎のような言い回しをする、などという非常にどうでもいいことを賀子は考え
た。冷静なのか錯乱しているのか、相変わらず、自分で自分が掴めない。
水野が気難しげに唸り、腕を組んだ。
「話を戻すが、問題は奈津ちゃんなんだよな。俺ら六人はまあ、何か、たまたま選ばれたのか
も知れないんだが。奈津ちゃんに限っては、明らかに計画的だ。何つうか」
一呼吸置いて言った。
「犯人はすげえ大規模で計画的だって気がする」
誰かの深呼吸の音が聞こえた。それだけ場が静まり返っている。
奈津がぽつりと言った。
「テレビの企画とか」
「いや、そりゃ私も考えたがね。無茶だよ、こんな人権無視したことは。大体、中学生の女の子
の寝室に侵入するとか――君のご家族はそういうことを許可するお人なのかね?」
井上の言葉に、奈津が首を横に振る。
「父はそういうの、大嫌いで」
「何かしら、これは――犯罪に巻き込まれたと考える方が現実的という気がする」
適応が早いな、とまたとても遠いところで賀子は考える。大抵の日本人はこういう時、なかな
か――まさに賀子のように――己が危機の渦中にいるということを実感できないものだと思う が、弁護士という職業柄だろうか。彼の言葉に重みがあるのも肩書きゆえか。彼を発信源にし て、危機感の余波が広がっていくのが肌で判る。
「どうすりゃいいんだよ」
茶色に染めた髪をくしゃくしゃと掻き回して、銀山がうめいた。
「誰か来るのかよ。どっか連れて行かれるのかよ。何かされるのかよ」
「放置されるのかも知れませんね」
賀子の言葉に、全員が顔を上げた。
「私たちのことが必要なら、外に出られるようにはしておかないでしょう。そういう可能性はある
かと思います」
三十秒ほどか。わりあい長い沈黙を置いて、敵意の言葉を発したのは井上だった。
「あなたさっきから、やけに冷静だ」
「え」
判るのだが、彼に言われるとは思わなかった。少なくとも賀子にすれば、彼の方がよほど現
実的に状況を把握していると思う。
「湯田さん、何か知っているんじゃないだろうね」
「……冷静なのは性格ですよ。あんまりパニック起こせない性質なんです。と言うか私はまだど
こかで、何かの冗談なのかもと考えています。だから現実感がなくて」
井上は答えずに顔をしかめ、眉間を揉んだ。こういった賀子の性格はなかなか理解されたこ
とがないが、彼はさっさと察したらしい。意思疎通が迅速だ。さすが理性的である、神経質そう だけど、とまた冷静に賀子は思う。
「何のために放置?」
独り言のように志度が呟いた。
「何の意味もない……こんな何もない建物に放置なんて」
「餓死するだけだよな」
「そういう企画とか? いや、テレビでなくて、非公式なその、何て言うんだ。本物の犯罪とか撮
った映像」
「スナッフフィルム?」
「そう、そういう」
「やだっ……」
「な、何だその発想は。君、変な映画の見過ぎじゃないか」
「変な映画みたいな状況ではあるな。ただ俺たちじゃ冴えねえって気がするが。中学生が三十
人集められたら、そりゃ殺し合いでもさせられるのかも知れんが。俺みたいな普通のじいさん 撮ってもなあ」
「よくご存じですね、あんな映画」
「孫が小説読んでた」
「現実的に考えると、ほら……労働力として拉致とか」
「それが現実的ってのが嫌だよな。だがアサヒ電気の娘をあえて選ぶのが判らねえ」
要は何も判らない、と結論して、場は静まった。
誰かのアナログ時計がカチカチと時を刻んでいる。そう、今は自分たちが身に付けていたも
のだけが、この非現実的な状況の中で、唯一確かな事実だ。奈津を除いた全員が、カバンな りリュックサックなり傘なり、最後の記憶の時点で所持していたものを持っていた。携帯電話は 全員が無くしていたが、それ以外には特に何も、無くなっておらず増えてもいなかった。服や荷 物ごと、この訳の判らない建物に連れて来られたのだ。有名な密室映画のように、『彼女の指 輪は取られたが、君の眼鏡はある』などといったメッセージ性は感じられない。犯行声明や目 的を吹き込んだカセットテープもない。殺し合いのルールを説明する政府の人間も現れない。
危機が直近でないことが、かえって不安だ。
何人かの顔にそう書いてある。そう、日本人は、こういう暗中模索のような状況に弱い。賀子
も含めてだ。
「私」
ゆらりと、それまで押し黙っていた主婦、因幡が立ち上がった。
「調べて――来ます。電話とか、水とか」
「わ、私も」
奈津が慌てて腰を上げると、男連中も声をあげた。
「俺も行こう」
「お、置いて行くなよ」
「私も――というか、全員で固まった方がいい気がするよ。何があるか判らないし」
井上の提案を退ける者はいなかった。
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