父は別に、そう優しい人ではなかったが、他人を貶める言葉などは決して口にしなかった。
 仕事の忙しい時期などは、ぼそぼそと愚痴を言っていたこともある気もするが、それでも銀山
純は、あの父が誰かを罵っていた姿、というものを思い出すことができない。だからやはり、も
ともと記憶に存在しないのだろう。何か信条があってそうしていたのか、単に汚い言葉を嫌って
いたのか、そういったことは知らない。
 尊敬できると感じてもいたが、訳の判らない人だ、とも思っていた。感情そのものをあまり露
わにしないのだ。口数が少ないということもないのだが、当たり障りのないことしか言わない、と
いうのだろうか。激しい意志というものを主張しない。良いの悪いのという話ではなく、ただ、そ
ういう人だった。純のこうした、やや醒めている感性も、そうした父の性格に影響されているの
だろうと思う。母も公平を心がける人ではあったが、父と違ってよく喋り、よく主張し、相容れな
いものには高らかな批判をぶつけることもあった。
 どちらが良いというものではないのだろう、と二十歳の純は察している。
 純はどちらのことも尊敬しているし、好感を持っているし、また憎しみを抱いている部分もあ
る。親というよりも、それぞれの人間として彼らを捉えているのだ。多分それは、両親の方でも
同じことなのではないか、と近頃は思う。父も母も、世間では少し珍しいほどの個人主義者だ。
そう呼ばれている。
 そんな父であったから、己が妹のことを語る時の、苦々しいとも言える表情は、とても印象的
だったのだ。
 だがおそらく、嫌っているというよりは、単に苦手にしていたのだろう。盆正月に訪ねる祖父
母の田舎で、あの出戻り娘が、などという悪口に付き合わされるたび、父はあの苦い顔をし
た。父が苦手にしていたのは、妹そのものではなく、彼女が一族に持ち込んだ猥雑な空気だっ
たのかも知れないと、今では思う。親族の揃う場で叔母の姿を見たことは一度もない。出戻りと
言ったところで、実家に帰っていたのはほんの数月ほどで、それからはずっと一人暮らしをして
いるのだと聞いた。追い出されたようなものなのだろう。
 純の母は、そんな義妹に同情するところがあったのか、ずっと親しい関係を築いていた。近
所にアパートを借りるよう勧めたのも母であったらしい。幼い子供たちの面倒を託す目的もあ
ったのだろうが、やはり心配していたのだろう。すっかり図体が大きくなってからも、月に一、二
度は、惣菜などを持たされた。父がそうした関わりをどう思っているのかは判らなかったが、口
を出してくるようなことはなかった。だからやはり本心では、父も、妹を気遣わしく思っていたの
ではないだろうか。
 叔母――純も二つ上の兄も「美咲さん」と呼ばなければ拳骨を落とされた――は、綺麗な人
だった。背が高く、すらりとしていて、いつも少し怒っているように見えた。目尻のすっと切れ上
がった、猫のような顔立ちをしていたせいだろう。子供の頃、美咲さんは怖い、いや格好いい
と、兄と喧嘩をしたことがある。もちろん純の主張は後者だ。思えば馬鹿馬鹿しい話で、美咲に
も「くだらないことで言い合うな」と仲良く頭を叩かれた。そのあとですぐ大笑いされたが。
 年齢は頑として教えてくれなかったが、父とはかなり開いているようだった。といっても、純が
幼稚園に通っていた時分には、結婚と離婚を済ませていたことになる。
 どんな仕事をしているのか、というのも詳しく聞いたことはない。勤めに出ていた様子はなく、
だからこそ母も子供たちを預けていたのだろう。たまに何やら、難しげな書き物をしていたの
で、そうしたことで生計を立てていたのかも知れない。
 男の援助などを勘繰るには、美咲の暮らし向きは質素だった。そしていつも、お金持ちと結
婚したいわあ、と言っていた。どこまで本気だったのかは定かではないが。
 ――美咲さんくらい美人なら、いくらでも金持ちなんて捕まえられそうなのに、やっぱりバツが
効いてるのかなあ。
 中学生の頃に兄が漏らした、その言いようが何となく気に入らなくて、殴り合いの喧嘩をし
た。のちに兄がそれを美咲に伝え、またもや「くだらないことで言い合うな」と頭を叩かれた。
 そんな叔母のことが好きだった。
 きりっとした眼差しが好きだった。ゆるく束ねた長い髪が好きだった。透明のマニキュアを塗
った爪が好きだった。唇の右端だけを持ち上げて見せる、少し突き放したような苦笑の表情が
好きだった。
 いつかどこかへ行ってしまうのではないか、と心配になるような、あの儚げな雰囲気を愛して
いた。
 ――純。
 少しかすれて、ゆったりとした、その甘い声をよく夢の中で聞く。
 別に、優しい人ではなかったと思う。世話にはなったが、それほど温かみのある女ではなか
った。そういう印象は父に似ている。
 それでも純は、そんな叔母のことが好きだった。
 美咲は、純が幼い頃から訴える幻覚症状を、一度も馬鹿にはしなかった。そうなの、怖かっ
たね、もう大丈夫と、いつも頭を撫でてくれた。両親もかつてはそうだったが、思春期を越しても
同じことを訴え続ける純を、次第に違う目で見るようになっていた。美咲だけが変わらなかっ
た。
 ――純。あんたそんな名前だから、普通じゃないことまで感じるのかもね。
 そう言っていた。それ以上のことは何も言わなかった。それは優しさというよりも、無関心に
近い感情なのだと判ってはいたが、それでも純の心は包まれた。
 愛していた。
 その背中にいつも、薄暗い不幸の陰を滲ませていたあの人のことを、幸せにしてやりたいと
思った。

 ――ういうことだ。
 ――れたんですか。

 甘酸っぱく、少し苦い感傷は、開け放ちの窓から飛び込んできた騒音に掻き消された。

 ――ってきたんですか。

 外で誰かが大声を上げている。賀子と水野だ。何か言い争っているのかも知れない。
 少し考えたが、美咲に似ている女の加勢に行こうと、純は立ち上がった。




0−2 彼女に似た人  終

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