外が暗くなってきた。
 時計は午前九時過ぎを指している。それぞれすることもなく、床に転がって仮眠を摂ってい
た。消灯の方法が判らないため、みな顔を腕で覆っている。
 今は賀子以外には奈津だけが起きており、志度の所有物である文庫本を読んでいた。他の
人間を起こさないよう、そっと近付き、小声で話し掛ける。
「奈津さん」
「あ、はい。ええと、湯田さん」
「あなたは眠らなくていいんですか?」
「だ、大丈夫です」
 何か怯えている。
「私、怖いですか」
「あ、ち、違うんです。すみません。人見知り、する方、なので」
「その本面白い?」
「あ、よく判らない、です。三冊あって、好きなのを読んでいいって言ってくれたんですけど」
 奈津が開いていた文庫のカバーを外し、表紙を見せた。『城の中のイギリス人』――マンディ
アルグである。賀子は他の二冊にも手を伸ばし、そちらのカバーもめくってみた。ポーリーヌ・
レアージュ『O嬢の物語』と、団鬼六の『花と蛇』。三十二歳のサラリーマンが読むには微妙な
線だ。というか、ダイレクトに嗜好の偏りが見える。どれも文学として認知されてはいるが、この
三冊を同時に所持している人間はそういないと思う。
「あなたは読まない方がいいんじゃないですか」
「あ、そう、なんですか」
「というか、これを中学生の女の子に勧めるのはどうかと思いますが……」
 普段なら別に、他人の読書傾向などは気に掛けないが、この状況を考えると少しばかり危機
感を覚える。現実と非現実をはっきり分かっている人間ならいいが――と考えてから、自分自
身がそのボーダーであることに思い至った。もっとも賀子は、他人に危害を与えるタイプではな
いが。いや、それも判らないか。「現実に対する現実感」が希薄な分、いざとなれば、自分でも
想像できないようなことを簡単にやらかしたりするのかも知れない。気を付けよう、と一人で心
に誓う。
「あの、湯田さん?」
「ああ……とにかく、読まない方がいいと思いますよ。読みたいなら止めませんけど」
「え、怖い、とか?」
「怖いと言うか」
 どれも文学と言えないこともないが、ポルノと言えないこともなく、また極端なSM嗜好が描か
れているということを、言ったものか黙っておくべきか。ちなみに二十二歳の平凡なOLであると
ころの賀子がこの手の小説に詳しいのは、それこそ以前に付き合っていた男がそういう趣味を
持っていたためである。
 と、視界の隅で、志度が物凄い勢いで起き上がった。ばっとこちらを振り向いて、這い寄るよ
うに近付いてくる。充血した目が恐ろしい。
「旭さん、ごめん、その本駄目だ」
「え?」
「も、もう読んじゃった?」
 二枚目面に脂汗をかいている。これはどうも、カバーの中身を今の今まで忘れていて、ようや
く思い出したようだった。
 賀子はそっと三冊を重ね、持ち主へ差し出した。
「……止めておきました」
「あ、ありがとうござ、いや、違うんです。司馬遼太郎とかだと思っていて……今朝別の本に替
えたことを忘れていて、その」
「真面目に聞きますけど、こういう趣味なんですか? 奈津さんが気になったりします?」
「ち、ち、ち、違います。なりません。素人さん相手にそんなことしようとは思いませんよ」
「ああ、お店に行くんですね」
「だっ、そういう、いや」
 慌てている。賀子としては他人の性癖や風俗遍歴などは心底どうでもいいのだが、自分や奈
津に危険が及ぶのは困るため、一度確認しておきたかっただけなのだが。
「違うんですよ」
 情けない声で言い募る志度を放置して、ぽかんとしている奈津に笑いかける。
「退屈なら私と話でもしませんか」
「あ、は、はい……?」
「奈津さん、ソーラー発電のシステムには詳しいんですか?」
「い、いえ。パンフレットとか、読んだ程度で。すみません」
「まあそうですよね。ソーラー電気って、夜でも使えるのかしら」
「え、それは、蓄電できますから。実際はその、一般家庭なんかの場合は、電力会社に売った
方がいいと思いますけど」
「……よく判らないけど、そうなんですか。ああ、突然ですけど、奈津さん学校の成績はいい
方?」
「え」
 戸惑った顔をして、奈津は唇に指をあてた。美人という風ではないが、雰囲気の可愛らしい
少女だ。
「物理は少し、好きです。あと数学と、現代国語も」
「それは何でもできる優等生ってことだね」
 目の覚めたらしい志度が本を背中に隠しながら口を挟んだ。奈津は慌てて手を振る。
「とんでもない、です。歴史とか地理とか、全然恥ずかしくて」
「僕は学生時代、逆に暗記系の方が得意だったんだけどね。やっぱり、覚えることよりも考える
ことの方が大事だよ」
 二人の会話を聞きながら、奈津も地理は駄目なのか、ということを賀子は考える。偶然か、
そうでないのか。
 そして志度の言うように、考えることは得意な方、ということになるのか。今も怯えてはいるよ
うだが、無意味に黄色い悲鳴をあげたり、ヒステリーを起こしたりする気配はない。
「奈津さん、この状況をどう考えてます?」
「え……」
「政府の陰謀とか、宇宙人にさらわれたとか」
「判り、ません」
「でも何かしら推測はしてるんじゃないですか?」
 奈津は視線を落とし、少し考え込むようにしてから、ぽつりと言った。
「現実だと、思います」
「え?」
「ああ、今まで現実感がなかったってことかな。無理もないけど」
「いえ」
 志度の問いに首を横に振る。
「そういうことではなくて。何て言うか、えっと――非現実的だけど、非現実じゃない、と思ってま
す。ファンタジーじゃなくて、アンノウンって言うか」
 志度と視線で「判ります?」「判りません」という会話を交わす。奈津は自分の説明下手をもど
かしく思っているようで、両手を動かしながら話を続けた。
「たとえばその、栄養食、日本製ですよね。ああいうの、宇宙人なら用意しないと、思うんです。
あと屋上のパネル、メーカーは判りませんけど、やっぱりソーラー発電です。宇宙人ならあんな
の使わない、んじゃないかと。だからもっと、現実に足のついた状況なんだと――思います。っ
て、わざわざ言わなくても、判りきってることですよね。すみません」
「ああ」
 少し合点が行った。賀子が頭の隅で考えていた「宇宙人」などに類する可能性を、奈津は賀
子よりも少し真剣に検討してみて、状況証拠の検分をかけた上で、その案を棄却したのだ。
 要するにこの少女も、きちんと状況を把握している。そして賀子よりも柔軟性があるのだろ
う。志度が頷いているところを見ると、彼にも奈津の論旨を理解するだけの視野があるようだ。
「宇宙人じゃないとしたら、どんな可能性が奈津さんの中では残りますか」
「え、えっと。あの、私たちの共通点を考えてみた、んです」
 さきほど外で、井上や水野がそういった話をしていたが、それは奈津には伝えていない。賀
子は黙って先を促した。志度も少し真剣に聞いている。
「共通点、ない、ですよね。少なくとも、私は見つけられなかった、です。井上さんと因幡さんの
お年が近いとか、そういうことだけで。わざわざ七人、全国から集めた感じって言うか」
「はい。それで?」
「水野さんが仰ったように、私が強い意志で選ばれたということは、間違いない、と思うんです。
それなら、皆さんも同じかなって」
「誰が何の目的で?」
「何かのサンプル、とか」
 水野の仮説と同じベクトルの言葉だ。情報のやり取りのない最年長と最年少から、同じ結論
が出た。これはどうなのだろうか。偶然か。あるいは一般的な発想だということなのか。それと
も。
 奈津はかすかに眉を寄せて、話を続ける。
「こう、何かの統計を取るなら、年代も職種も違う人間を集めるものなんですよね。ここの七人
は、そういう最小公倍数のように、思います。統計を取るのに適している最小限の人材、という
か。見た感じ、全員健康で、健全――って言うんでしょうか。特別変な行動を取りそうな人がい
ない、ような。あ、因幡さんは、今は体調が悪そう、なんですけど。病気ではないようなので」
 これは――
 賀子は舌を巻いた。志度の様子を窺うと、彼も何か、真剣に考え込んでいるようだった。
 大人連中があれやこれやと議論した結果思い描いた可能性に、奈津は一人で至っている。
 そのうえ論理展開がうまいのか、妙に説得力を感じてしまった。水野が語ってもやはり荒唐
無稽さは拭えなかった説が、奈津の解釈では、「充分ありそう」という線にまで押し上げられた
気がする。少なくとも賀子はそう思った。
 現状、奈津はおそらく、一般的な老若男女が七人揃っている、というように考えているのだろ
う。賀子は少し違う。一般よりも知的、あるいは行動水準の高い人間が揃っている、というよう
に思えてならない。奈津の論説が駄目押しだ。
 となれば――それこそいよいよ、何かのサンプルであるとか、そういう可能性は、現実味を帯
びてくるのではないだろうか。
 確証めいたものが何も存在しない以上、何にせよ、妄想の域を出ないことではあるのだが。
「……何て言うか、凄いね、君」
 彼女の凄さが判るあなたも凄いのよ、と、賀子は声に出さず志度に言った。



6 旭奈津  終

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