――少し肌寒い。
 まだ眠っている因幡と、外に煙草を吸いに出た井上以外の全員が、そう思っているようだっ
た。時刻は午後三時を少し回ったあたりだが、外は真っ暗に暮れている。
「寒い、ですよねえ」
 今まで誰もがあえて口にしなかったその事実を、とうとう志度が言葉にした。確かにワイシャ
ツ一枚の彼は、他の誰よりもそれが堪えていそうに見える。
「あ、あの、これ、お返しします」
 そう言って志度の上着を脱ごうとする奈津を、志度は「いやいや」と苦笑いで押し留める。
「そこまでじゃないんだ。ちょっと冷えてきたなと思って」
「やっぱ、昼とは温度差があるんだなあ」
 一人だけ椅子に座っている水野が、頭を掻きながら呟いた。座りっぱなしで尻が痛くなりはし
ないだろうかと思うのだが、どうも姿勢を良くして座っていないと、腰に負担が掛かってつらいの
だと言う。
「風邪でもひいて、こじらせたらたまんねえよな」
 ジャケットの前を合わせながら銀山が吐き捨てた。まったくだ。医者も薬も期待できそうにな
い現状、怪我や病気には注意を払いたい。
「皆でくっついて寝るかね?」
 という冗談交じりの水野の提案は、もちろん無言で却下される。ちなみに志度の蔵書は、た
またま水野が手に取ってしまったことから全員に公開され、水野からは苦笑を、井上からは軽
蔑の視線を受けた上に、「女性がたは別の部屋で休んだ方がいいかも知れない」とまで言わ
れていた。結局、分かれる方が不安だという女性陣の意見が採用されたが、好青年の評価は
地に落ちた。なお「井上さんだって読まれるでしょうこのくらい」とささやかな喧嘩を吹っ掛けて
いたが、弁護士の弁舌にあっさり論破されていたのが情けない。
 奈津が小さくくしゃみをした。しばらく前に、それぞれで所持品を広げてみたが、暖を取る役に
立ちそうなものはなかった。せいぜい銀山と井上がライターと、賀子自身が居酒屋のマッチを
持っていたくらいである。志度の本でも種に焚き火をしようかとは考えたが、火事にでもなった
ら大惨事だと思い直した。
「毛布くらい置いとけってんだよなあ。椅子だの机だの要らんっての」
 ぶつぶつと水野が不満を漏らす。じじいにはきついぜこりゃよお、などとも言っていたが、ふと
何か思いついたように手を叩いた。
「ホームレスの知恵」
「え?」
「水入ってたダンボールあるじゃねえか。あれ何とかしよう。結構暖かいぞ」
「ああ、なるほど。取って来ましょう」
 フットワークの軽い志度が立ち上がる。
「私も行きます」
「襲われんなよ、湯田さん」
 水野の軽口に苦笑で返して、賀子は腰を上げた。



 部屋から数歩遠ざかってしまうと、空気は耳鳴りがするほど静かだった。賀子のパンプスの
足音が、ずいぶん遠くにまで響く。
「あら、やっぱり出ると寒いですね」
「人がいるから少し暖かかったんでしょうね。んん、毎晩これだと辛いな……。いつまでこの状
況が続くんでしょうか」
「さあ。でも危害を加えられるとか、そういうことがなくてまだ良かったですね」
「不幸中の幸いですよね。水と食べ物がなくなるまでには、何とかなっているといいんですが。
望み薄かなあ」
「志度さんはそう思いますか」
「いや、さっき湯田さんも言ってらしたでしょう。どうなるかより、どうするか考えた方が建設的だ
から。待ってても何もならないと考えた方が現実的だって気がします」
「なるほど」
 階段に差し掛かり、志度が手すりを掴んだ。歩調が落ちて、一段ずつゆっくりと上りはじめ
る。
「すみません、階段が少し苦手で」
 志度はそう言って恥ずかしそうに苦笑する。そういえば全員で館内を回った時も、階段の上り
下りでは最後尾にいたか。
「階段が苦手って、珍しいですね。高所恐怖症とか?」
「いや、高いところは平気なんですけど、階段とかエスカレーターとかがちょっと。子供の頃、足
を滑らせたことがあるらしいんです。自分ではよく覚えてないんですけど」
「ああ、判るような気がします。私はなかなかエスカレーターに乗れないんですよ。とろいから」
「はは、嘘でしょう」
「え」
 ここで笑われる意味が判らず、賀子は首を傾げた。
「嘘って?」
「あ、いや。湯田さんは落ち着いてるし。とろいということはないでしょう。気を遣ってもらってす
みません」
「ああ――」
 賀子はそんな微妙な気遣いができるほど気の利く女ではないのだが、まあそれは別にいい。
「私、落ち着いてるように見えますか、やっぱり」
「それはそうですよ。あ、僕はその、何か知ってるとか思ってる訳じゃないですけど」
「結局、とろいだけだと思うんですけどね。感情が認識に追いつかないというか」
 志度のような健全な男には判らないという気はするが。いや、それも賀子の勝手な評であり、
彼は彼で、他人には理解できない綾を抱えているのかも知れない。愛読書のラインナップを考
慮すると、むしろ抱えていそうな気もする。
「そういえば志度さんは、ご結婚は?」
「え? ああ。はは」
 白々しく笑ってから頭を掻いた。
「恥ずかしながら独身、というかバツイチなんです。子供もいるんですけど、妻の方に」
「あ――すみません」
「いえ。はは」
 階段を上る足音が静かな廊下に響く。
 少し間を置いてから、志度が言った。
「……さっき湯田さんが仰られましたけど、そう。店に通っていたのが家内にばれましてね。先
方から電話が来て」
「それは、かなり非常識なお店なんじゃないですか」
「まあ、料金の支払いを滞納していたことを忘れていたこちらが悪いんですけど。そもそも家内
は、前から薄々勘付いていたみたいだったんですよね」
「でも、それで離婚というのはちょっと厳しくないですか。女王様に貢いでいたとかなら判ります
けど」
「貢いでません……。多分、普通の店なら、彼女もそこまで気にしなかったと思うんです」
「それこそ許容するべきだと私は思いますけどね。よそのお姉さんが代わってくれてる訳じゃな
いですか」
 賀子が正直な所感を述べると、なぜか志度は噴き出した。
「志度さん?」
「あ、いや、すみません。何と言うか。よく判ってくれてますね。湯田さんと結婚すればよかった」
 と言いながらもう一度噴き出した。何がそこまでおかしいのか、賀子にはよく判らない。
「私、変なことを言いました?」
「いえ、失礼。セクハラでしたね。会社でもよく言われるんです」
「そうは見えませんけど」
「僕は少しもてるんです」
「それはそう見えます」
「何かと言うとセクハラですよって笑いながら騒がれて。若い女の子は判らないです」
「会社でもお店がどうのという話をされるんですか?」
「ちょ、違いますよ」
 三度噴き出した。笑い上戸か。
「あなたと結婚すればよかったって。口癖みたいに言っちゃうんですけどね」
「ああ、それがセクハラ。なるほど」
「一昨日なんか会社の女の子と飲んで、酔った時に言ったらしくて。目が覚めた時に……あ、
すみません。初対面の方に」
「面白いですよ」
 志度は咳払いした。少し顔が赤い。
「お恥ずかしい。湯田さんは、ご結婚はまだですよね」
「そうですね。一度しようと思ったことはあるんですけど、これが結構ろくでもない男で。この年
でヒモぶら下げたくはないなと思って考え直しました」
「そんな男に引っ掛かってたんですか? あなたが?」
「だから別に、人が思うほどしっかりしている訳ではないんですよ、私は」
 食糧の置いてある部屋に着いた。志度が開けてくれた扉をすり抜け、空きダンボールを集め
た一角に向かう。
「とりあえず、持てるだけ持って行きましょうか。全部は要らないでしょうし」
 空間が雑然としていると苛々する、という井上がきちんと畳んで重ねていたため、持ち出すの
は簡単だった。賀子が両手に抱えられる程度を見繕い、志度の分も取り分ける。二人で二十
箱分程度は持ち出せるか。
「志度さんはこのくらい?」
「そのあたり、全部運べると思いますけど」
「片手は空けておかないと、手すりを掴めないでしょ」
「あ、ああ。すみません」
「別に全然」
 自分の分を抱えて、よいしょと立ち上がる。
 廊下に出ると、遠くの方、階下から足音が聞こえた。井上が戻ってきたか、他の誰かが外に
出たのだろう。
「志度さんは煙草は吸われないんですか」
「ん? 子供ができた時にやめて、それからなんとなく吸っていないんです。井上さんたちは切
れた時がつらいでしょうね」
 と言って同情的な顔をする。それほど大層なことかと思うが、吸わない賀子にはそのつらさは
判らない。それから戻るまでの間も、何やかやと世間話を交わした。
 部屋に着き、片手の空いている志度が扉を開ける。
「よ、お疲れさん。無事かー」
「おかえりなさい」
 出迎えた水野と奈津が、賀子のダンボールをそれぞれ引き取ってくれた。火の点いていない
煙草をくわえている銀山が、テーブルで志度の本を読んでいる。因幡はまだ部屋の隅で寝てい
た。
「井上さん、まだお戻りじゃないですか」
「長いねえ。便所かな。ティッシュなくなったらどうすっかねえ。ダンボールじゃ痛えし。あ、菓子
の箱が紙か」
「まあ切実な問題ではありますね」
 答えてから、ふと思いついて尋ねる。
「どなたか、私たちが上に行っている間にここから出られました?」
「ん? いや、俺らはずっといたが」
「あら」
 賀子は志度を振り向いた。
「じゃあ、井上さんが歩き回ってらっしゃるんですね」
「え?」
「足音が聞こえたじゃないですか。三階にいる時」
 志度は首を捻って、そうですかと言った。
「僕は気付きませんでしたけど……反響とかではなく?」
「いえ、下から」
「んん、僕は聞きませんでしたね」
「あら……」
 静まり返ったあの空間で、あれほどはっきりした音を聞き逃すことがあるのだろうか。
 とはいえ、こう言うからには聞き逃したのだろう。
 なんとなく釈然としなかったのだが。



7 知恵  終

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