「凄いな」
 と、戻ってきた井上は、どこか呆然としたように呟いた。
 接着するような道具もないため、ただダンボールを2、3箱連結させて、その中に寝る仕組み
の――ハウスと呼ぶにも単純なダンボール群が人数分出来ている。見かけがいいものではな
いが、この際そんなことは言っていられない。
 ちなみに今、その中にいるのは奈津と因幡だけだが、彼女達からは「意外に暖かくて快適」と
いう評が下されていた。寝姿を直接他人に見せなくてもいい、という安心感もあるのかも知れな
い。
 水野も、中にいると言えばいるのか。相変わらず椅子に座っているが、胴にダンボールを巻
き付けている。
「順応力が高くて結構ですね」
 本音なのか嫌味なのか、井上はそう言って、起床組の揃っているテーブルについた。「イギリ
ス人」を読んでいる銀山と、ぼうっと頬杖を付いている志度をちらりと見てから、賀子を向く。
「湯田さんはあまり眠っていないんじゃないか。大丈夫なのかね」
「ちょくちょく仮眠は摂ってますよ。ずっと寝ておいでの因幡さんの方が心配ですけど」
「精神的な負担もあるんだろう。……ところでそろそろ、これからの方針について真剣に論じる
べきだと思うんだが」
 目を醒ましてから半日が経っている。そろそろ皆、時間を持て余していた。食糧と水が限られ
ている現状、何事もなく時間だけが経過するというのは、確かにいい傾向だとは言えないか。
「我々はどうするべきか」
 メモ帳とペンを取り出した井上に、志度が小さく挙手した。
「どんな選択肢があるでしょうか」
「私は二種類だと思うね。出るか、留まるか」
 シンプルだが、実際そうだろうと賀子も思う。自分たちで行動するか、救助を期待するかだ。
どちらも不確実だという点では同じである。
「ここにいたら、犯人連中が戻って来る可能性もあるんだよな」
 水野の指摘はその通りで、ここも別に、食料が尽きるまでは安全地帯、などということはない
のだ。
「救助が来なかった場合、我々の未来は閉ざされますね」
 文学調で呟いた賀子に、井上から素早い反論が来る。
「だが来るかも知れない。その場合、ここから出るのは自殺行為だ。遭難でもしたら」
「それは私も思いますが。救助が来る望みは薄いかと」
「なぜだ?」
「犯人からしたら、救助なんて寄越したら、それこそ無意味じゃないですか。水も食糧もある、
そこそこ清潔な施設に、私たちを何日か軟禁しただけです。この間に何かしている可能性もあ
るでしょうけど」
「救助如何と犯人の意志は関係ないだろう」
「これほどの規模の犯罪を行なえる相手なら、救助の阻止くらいはやるんじゃないですか」
「……無意味かどうかは判らない。放置というのは無意味ではないのか」
「しばらく放置したのちに、何か企んでいるのかも知れないですよね」
 井上の表情から、納得と感心と不信とを、同じ程度の割り合いで感じ取る。だがこの程度の
ことは、わざわざ賀子が言わなくとも井上は判っているだろうし、水野あたりもそうだろう。井上
は皆を喋らせて情報、ないし意志を引き出したいのだろう。能率的だ。
「僕は」
 とんとんと机を叩きながら、志度が発言する。
「出た方がいい気がします。それほど広い砂漠ではないように思うので」
「その根拠は?」
「いや、素人考えなんですが」
 井上の素早い突っ込みに怯まず切り返す。
「この建物が……どなたか仰いましたが、それほど広い砂漠の真ん中に、こんな建物を造れる
ものなんでしょうか。資材も人材も要るでしょう」
「意志と資金と時間があれば、無理ではないだろうよ。今の時代、人間ができないことなんぞそ
うそうない」
「非現実的ではないでしょうか」
「この状況で、その言葉にどれだけ意味があるんだ。身元のしっかりしている日本人を七人、
鮮やかな手際で攫って来て、こんな訳の判らない場所に置いている以上、相手方は非常識で
非現実的だと思うが。それだけの規模もあるだろう」
 二人の意見にはそれぞれ正当性があるのだろうが、どちらかと言えば賀子はなんとなく、井
上に理があるような気がした。なんとなく、という程度の話だが。楽観的な意見を信奉する気に
はならない。
「砂漠を抜けるとしたら、大体のプランはどうなるかね」
 手助けのような水野の問いに、志度は頷いて答えた。
「女の子もいますし、日に20キロ歩ければいい方でしょう。五日で100キロ。十日で200。最
初に方向を定めてしまって、あとは一直線に突っ切るのが最短かと」
「ふむ。大雑把だな」
「緻密に考えられるだけの情報がないので。水野さんは反対されますか」
「別にそういう訳じゃないんだが。その間、野宿ってことになるだろ。それはまあいいとして、水
と食いもんはまず持ち出ししかないよな。あれだけ抱えてると、相当ペースが落ちると思うが」
「それは、そうですが」
 聞いていた井上が溜め息を吐いた。
「非効率的だな」
「……効率的な方法なんてないんじゃないですか」
 志度の声が棘を含む。
 まずい、と、この状況に押し込められてからほとんど始めて、賀子は焦った。この閉鎖空間で
対立が起きるのは止めたい。特に志度に激昂などされたら、物理的に制止するのは困難だ。
 賀子が仲裁の言葉を思案している間に、読んでいた本をテーブルに伏せた銀山が、マイペー
スな声をあげた。
「どっちも採るって手もあるよな」
 視線の集中を受けて、銀山は少し胸を反らせる。
「……水とか、確かに全部持ってくのはキツイだろ。でも残してくのも勿体ない。だからある程度
に減るまで、ここにいるとかさ」
「消極的だ」
 そんな志度の言葉を気にするようでもなく、銀山はひらひらと手を振った。
「その通り。俺はまあ、どっちかったら出たくないんだけど、しばらく経っても救助が来なかった
ら、そんなこと言ってらんないだろ。つまりギリギリまで待って、こりゃホントにダメだと思った
ら、その時出ればいいんじゃねえかって意見」
「小奇麗な折中案だな。……いや、褒めとるんだが」
 顎を撫でながら水野が言う。
「井上さんは、救助が来ると思っとるのかね」
「正直に言うと判りませんが。ここで飛び出すよりは、待った方がいいと思っていますね」
「根拠は?」
「根拠と言うか論拠になりますが。言葉を要約すると、野宿が不安なんですよ。怪我や病気の
危険はずっと跳ね上がる。どんな生き物がいるかも判らない。遭難の可能性も考えると、大人
しくしていた方がいいかと」
「ま、それも判るが」
「水野さんはどう思われるんです」
「俺には銀山君の意見が魅力的に思えるねえ。少なくとも長生きできそうな案には思える。あ
んだけの水引きずってくのは、じじいやお姉ちゃんがたには辛いしな。ただ俺は、志度君が行く
ってんなら止めんよ。井上さんが残るってんでも止めんし。水と食いもんは個人に分けたんだ。
あとは好きにすりゃいい。手前の命の振りかたは手前で決めるもんだろ」
 歯切れのいい啖呵だった。水野がいてよかったと心底思う。今の一言で、たとえ意見が分裂
したとしても、深刻な悔恨が残ることはなくなっただろう。
 別に誰かが折れる必要はない。自分の命が掛かっているのだから、それぞれが最善と判じ
た選択をするべきだ。討論は行なっても、喧嘩をするべきではない。
「失礼」
 志度が音を立てて椅子を引き、立ち上がった。
「頭を冷やしてきます」
 そう言い残して扉へ向かった彼の背中を、水野が無言で追い、途中で賀子を振り返った。む
っつりと黙り込んでいる井上を指して片目を瞑る。「こっちは頼んだぜえ」ということだろう。賀子
は頷いて答えた。
 二人が出て行ってから、井上が溜め息を吐き、強く眉間を揉んだ。
「彼は無鉄砲すぎる」
「心配しておられるんですか?」
「なに?」
「水野さんの仰る通り、好きに行かせればいいでしょう。大の男なんだし」
「それはまあ、その通りなんだろうが……」
 渋い顔をしてスーツの胸ポケットを探る。煙草の箱を取り出してから、忌々しげな表情でそれ
を机に置いた。苛々している。
「私はなるべくまとまって行動した方がいいと思うんだよ」
 銀山が伏せていた文庫をまた開きながら、「そんなに気負うこともないんじゃないっすか」と言
った。
「二手に分かれるのは、別に悪いことばっかでもないでしょ。行った組が救助呼んでくれたら、
残ってる組も助かるし。逆でも一緒。単純に言って、生存確率が二倍」
「単純すぎる計算だ」
「そうっすけど」
「大体そう思うなら、なぜさっき言わなかった?」
「志度さんが本当に行きたいのかどうか、まだ判らなかったし。あの人も考えてる段階なんだと
思いますよ。二手に分かれるなんて結論が先に出たら、行きたくない人にも行けって強制する
ことになるかと思って」
 黙々と本を読んでいるのかと思っていたが、意外と考えている。賀子は少し考えてから、言葉
を挟んだ。
「その案を採用した場合、行く派に重きが置かれる気がしますよね」
「そう、それも心配だったんすよ。呼んできてやるんだから食糧多くよこせとか言われたら困る
とは思ってた。まあ、あの人がそういうこと言うとは思わねえけどさ」
 井上は依然苦い顔をしてはいるが、頷いた。
「なるほど」
「その辺もさ。じいさんが個人でやれってまとめてくれて良かった」
 水野はおそらく、そういったことも考えた上でああ言ったのだろう。改めてもう一度、あの老人
がいてくれてよかったと思う。賀子はああスマートに場をまとめることはできない。むしろどちら
かと言えば掻き回す方だ。
 しばらく間を置いて、井上が言った。
「冷静だな」
「まだ言いますか?」
「いや、湯田さんだけではなくて。銀山君も水野さんも。志度君の言うことも一応、判ってはいる
んだよ。方向性が食い違うだけで」
「まあ大概、パニックというのは誰かが起こして、それに引きずられるものじゃないんですか。
切っ掛けがなければ、冷静でいざるを得ない気がしますけど」
「そうでもないよ。世間にはあなたが思うよりも、短慮で愚かな人間はずっと多いものだ。残念
だがね」
 他人が思うほどしっかりしている訳でも、深慮な訳でもない賀子は、井上の言葉に対して反論
を持たない。知的階級の人間から見ればそうなのかも知れない、と思うだけだ。他人を見下す
人間にろくな奴はいない、というのが賀子の両親の自論だったが、見下さざるを得ない人間と
いうのは存在すると思う。高みに立っているならば、足元を見るためには屈まねばならず、そ
のためには膝を曲げなければならない。その膝の痛みを忌々しく思うのは当然の権利だと思
う。
 まあ、好意的な解釈だとは自分でも思うが。好きで屈んでいる人間も多いのだろう。その場
合、膝の軋みは苦痛ではなく優越感だ。だが何となく、井上はそうではないような気がした。何
と言うか真面目なのだ。対立する志度とも、正面から目を見据えて論じていた。
「私は、井上さんのことが好きですが」
「は?」
 思い切り怪訝な顔をされる。言葉を間違えたか。
「いえ。頼りになってありがたい、と思っているんです」
「あまり頼られても困る。君はしっかりした女性だ、自立なさい。成人しているんだろう」
 こういう切り返しが真面目だ。彼のような上司の下で働きたい。
「それで、何が言いたいんだね」
「あ……恐縮なんですが。その、できるだけ強い衝突は避けていただけると助かります」
「命が掛かっている以上、あの程度は必要なディスカッションだと思うが」
「判りますが。女の身だと、男の喧嘩は怖いですよ。逃げ場のないここでは切実です」
「いや、喧嘩という訳では……」
 困ったように言いかけて、井上は首を振った。
「まあでも、そうか。すまんね」
「俺からも頼んますよ。志度さんに勝てる気はしねえし」
 文庫のページをめくりながら口を挟んできた銀山に、井上が苦笑する。
「何を情けない。二十歳の若者が」
「だってあの人、結構鍛えてる感じじゃないっすか。精力溢れてるって言うか。毎日肉食ってそ
う」
「ふ」
 井上が初めて、可笑しそうに笑った。
「肉か」
「俺、ベジタリアンだし。あ、いや嘘。魚は食う」
「肉を食べない? 何か宗教的な?」
「いや全然。噛んだ感じが嫌なんすよ。死体の肉から汁が染み出てるんだなーとか考えると、
おえって来る」
「嫌なことを考えますね」
「まったくだ。なぜ魚は平気なんだね?」
「魚はほら、きれいな死体って感じがするから」
「……判らん」
 賀子も判らなかった。しかし少し、笑った。



8 男たちの見解  終

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