吐き出された煙が、ゆらっと揺れて広がり、薄くなってから消えた。
 その様子に妙な感慨を覚えて、賀子はやたらと星の美しい夜空を見上げた。黒というより深
い紺色で、なんとなく、布のような質感を持っているように見える。もうその瞬間はすべての煩
いを忘れて、綺麗な空だ、と口を開けて眺めた。
「おねえさん、不細工な顔になってますよ」
 隣で一服する銀山の軽口に、賀子は顔をしかめる。
「うるさい。気分は良くなったんですか」
「あー。はは。まだきついわ。何だあの本」
「途中で止めればいいのに、どうして無理して読むんですか」
「他にすることねえし」
 話し合いは、とにかく身体を休めてから全員が揃っている時に、ということで先延ばしにされ
た。水野がうまく言い含めたのか、志度の頭も冷えたらしく、反対する者もいなかった。今は彼
らも眠っている。賀子も横になっていたのだが、一人で読書していた銀山が外に出ようとする
物音に気付き、それで目が醒めてしまって、散歩ついでに一緒に来た。
「カコさん、煙いだろ」
「別に平気です。銀山君のお宅も裕福なんですか」
「は? 別に普通だけど。なんで?」
「煙草なんて、学生さんには贅沢品でしょ。アルバイトですか」
「ああ、まあ」
「ガソリンスタンドとか?」
「何でだよ」
 と笑ってから、煙を吐き出した。
「家庭教師。高校生に」
「あら、いい大学なんですか」
「別に。教員志望だから、そういう経験もしとこうかと思って」
 ほう、と賀子は銀山の顔を改めて見た。建物の中から漏れる灯かりで、その少し目付きの鋭
い細面が照らされている。教師というようには見えないが。
「あれですか。学校の窓を割ったり盗んだバイクで走ったりしてた頃、厳しくも優しくしてくれた恩
師に感動したとか。それで自分も同じ道をと」
「そんな尖ったナイフみたいな過去はねえ。単に親が両方教師だから、そういうことになっただ
け」
「ああ、本当はミュージシャンになりたかったのに」
「なりたくねえよ」
 一呼吸置いてから、銀山は短くなった煙草を投げ捨て、踏み消した。
「未来の先生がポイ捨ては良くないんじゃないですか」
「人がいた痕跡になるだろ。灰皿ねえし。あー」
 帰りてえなと言って、その場に座り込むと、ぼんやりと夜空を見上げた。時間の経過とともに
落ち着いてきたようではあるが、やはり無理をしているのだろう。薄く口を開けた顔に疲れが滲
んでいる。
「おにいさん、不細工な顔ですよ」
「うるっせ。立ってっとパンツ見えるぞ」
「見ないでください。今日は見せパンじゃないから」
 などと言いながら、しばらく下着も替えられないのか、ということを考える。そろそろ風呂にも
入りたい。別に死ぬような問題ではないが、精神的に負担ではある。賀子が身に付けているも
のは、下着とブラウス、ベストに、スカート、ストッキングだけだ。ブラウスを着続けるのが辛くな
ったら、ベストだけで着られるだろうか。
「せめて寝る時は服を脱ぐとか」
 呟いた賀子を、銀山がぎょっとした顔で見上げた。
「何言ってんだあんたは」
「服は一着きりなのに、洗濯できないじゃないですか。なるべく着ている時間を減らした方が」
「本気で言ってんなら勘弁してくれ。二十歳の男なんて、裸の女が半径50メートルにいるって
考えただけで三発くらい抜けるんだぞ」
「……それはずいぶん純情な二十歳じゃないですか」
「このくらい言っとかねえとあんた本当にやりそうじゃねえか」
「だって、中から鍵の掛けられる部屋もあったし」
 銀山は苦いものでも食ったような顔をしてから、頭を掻き、それから溜め息を吐いた。
「間違ってももう言わんでくれ。やってもいいけど言うなよ。俺たち今、倫理と良心でやってくしか
ないんだから」
「銀山君は私が裸で寝たら襲い掛かってくるんですか」
「しねえけど!」
 声を荒げてから、気まずそうに顔を背ける。
「……男は俺だけじゃねえだろ。じいさんはあれだけど、井上さんとか志度さんとか。まともな人
だと思うけど、死ぬか生きるかってことになったら、何かキレるかも知んねえし。カコさん美人だ
し」
「あら、ありがとう」
「真面目に言ってんだけど」
 何か拗ねている。確かに彼の言うことも判るし、忠告もありがたい。賀子が男女の寝室分け
に反対したのは、心細いというのもあるが、あまり意識する――させるべきではないかも知れ
ない、と考えたのもあった。更に正直な心境としては、全員で固まっていれば、そうそう悪さもで
きまいとも思った。誰かがまかり間違って頭に血を上らせたとしても、他の男連中が止めるだ
ろう。
「志度さんとかさ。悪い人じゃねえんだろうけど危なそうだし。ああいう自分がもてると思ってそ
うで、実際もてそうな野郎は手が早ぇんだよ」
 そこはかとなく私怨を感じる言い方である。あの手の男に女を寝取られたことでもあるのか。
 銀山は立ち上がってズボンの尻をはたくと、背筋を反らせて伸びをした。
「そろそろ戻ろうぜ。寒いし。カコさんといると変な気分になる」
「本気で言ってるんですか」
「冗談に決まってんだろ」
 背中を向けて、入り口へと歩き出す。
 賀子はもう一度夜空を見上げてから、その後ろを追った。


「あ」
 館内に足を踏み入れて、賀子は銀山の袖を引いた。
「聞こえますよね」
 階上から静かな足音が聞こえてくる。ぺたぺたと言うか、ひたひたと言うか、静かな音だ。自
分たちの靴音の反響ではない。
 銀山が立ち止まり、廊下の奥、階段の方を見上げるようにした。
「ん」
「聞こえますよね?」
 先程の志度のこともあり、念を押す。銀山は少し不思議そうな顔をしてから、「聞こえるけど」
と言った。
「誰か便所にでも出てくるんだろ」
「静かな足音」
「奈津って子か。裸足だったし」
 ぺた、と足音が階段を下りてくるものに変化した。賀子は何となく、立ち止まってその姿が見
えるのを待った。銀山の袖は離さない。
「どうしたんだよ」
「しっ」
 少しして、廊下の奥から、やはり奈津が姿を現した。
 途端、賀子の頭からすっと血の気が引く。
「なっ」
 声を上げかけた銀山の頭を反射的に叩き、腕を強く引いて、反対側を向かせる。銀山は特
に抵抗しなかった。
 奈津は――
 ぐすぐすと泣きながら歩いていた。白いパジャマは上着だけで、その裾から細い脚が伸びて
いる。つまり下半身は下着だけか、あるいは下着さえつけていないのかも知れなかった。よく
見れば、手にズボンを持っている。
「奈津さん」
 泣いているせいか、賀子が呆然と声を掛けるまで、奈津はこちらに気付かなかった。
 はっと賀子を見て、大きな目にまた涙を溢れさせる。
「ゆ、湯田、さん」
「ど――どうしたの」
 急いで駆け寄り、幼い肩を掴む。奈津は泣きじゃくりながら、賀子の胸に顔を埋めた。
「湯田さん」
「何かされたの? 誰?」
「ち、あ、あのっ……」
 鼻を啜りながら顔を上げて、奈津はまた涙をこぼした。一瞬のうちに、あらゆる想像が賀子
の頭を駆け抜ける。
 一体何が起きたのか。
 賀子のブラウスの袖をぎゅっと掴んで、奈津は震える声を絞り出した。
「私、あの」
「落ち着いて」
「……あの、生理、来ちゃって」
 そう言って、少し身を引く。
「服に、血が、付いちゃって。隠せ、なくて」
 掴んでいるズボンを隠すようにするが、生地が白いだけに、赤く広がった染みはどうしようも
なく目立つ。
 賀子はさすがに言葉を見付けられず、しばらく黙って、ただ奈津の肩を抱いた。
 静まり返った廊下に、銀山の咳払いが響いた。



9 青少年  終

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