女性陣の移った隣室から、男性陣の待機している部屋に戻った賀子は、複雑な顔の揃って
いるテーブルにつき、「二人とも泣いていました」と報告した。
「ずっと泣いている訳ではないんでしょうけど、時々こう、波が来るようですね。今はあんまり話
せるような感じではありません」
「まあ、不安なんだろうなあ」
 さきほど自分で様子を見に行って因幡に話し掛け、「放っておいてください!」と怒鳴られてい
た水野がそう言った。なお腰に志度の上着を巻きつけ、剥き出しの膝を抱えて黙り込む奈津に
は、さすがの彼も声を掛けにくいようだった。とりあえず、ここに存在するすべてのポケットティ
ッシュは彼女に割り当てるということで全員が合意している。
「その、大変なのかね、旭君は」
 声をひそめた井上の問いに、賀子は視線を落とす。
「生――腹痛が酷くなったようなので、私の頭痛薬を渡しておきました。飲んで少しすれば眠く
なってきますから、それで休めると思います。ちょっと混乱してるようなので、そうした方がいい
でしょう」
「ストレス性の、ほら、不整出血などだったら大変じゃないのか」
「周期通りではないと言っていたので、それは心配なんですが。環境が変わるとそうなることも
結構ありますから」
「そ、そうなのか」
「少なくとも、全員で今からここを出るってことは出来なくなったな」
 銀山の呟きは、賀子も考えたことだった。奈津は動けないだろうし、彼女を置いて行くことな
どもできる訳はない。少なくとも賀子にそういう頭はない。また、そうしようという人間を信用でき
ないし、その集団と行動を共になどしたくない。
 一人でこの広い、何もない建物に残されて、食糧が減っていくのを待つしかない状況など、想
像しただけで身の毛がよだつ。
 テーブルに手帳を開いて、何やら文字を書き付けていた志度は、小さく溜め息を吐いた。眉
間に皺が寄っている。
「焦っていますか」
 賀子が話し掛けると顔を上げた。
「え?」
「なんとなくそういう感じなので」
「……はは」
 乾いた笑いを漏らしてから、今度は深く溜め息をついた。
「今日明日はまだいいんですが、明後日に外せない仕事が入っているんです。来月の頭にも。
それを失敗させてしまったら、ちょっとまずいので」
 そこで賀子は初めて、そういえばこれは無断欠勤になるのだということに気が付いた。もっと
も遅かれ早かれ、行方不明ということで騒がれるだろうし、そうなれば会社も何かしら気を回し
てくれるだろう――いや、判らないか。あまり景気がいいとは言えない昨今、賀子程度の社員
が面倒を起こしたら、会社としては手っ取り早く切ってしまうのかも知れない。たいへん理不尽
だが。
 志度はいかにも仕事ができる風であるし、いきなり首を切られるということはないにせよ、気
がかりなことは多そうだ。担当している仕事も多いのだろうし、大口の案件もあるのだろう。
「仕事より命だ。焦っても好転することはないよ」
 そう言った井上も、先ほど手帳を広げて溜め息を吐いていたことを賀子は知っている。
 志度は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「仕事が命のようなものなんですよ。子供の養育費もありますし」
「お子さんがいるのか」
 明日が誕生日だという娘のことを思い出したのか、井上は少し目元を緩めた。対照的に、志
度の目尻はわずか吊り上がる。
「……そうですよ、生きて帰らないと。あいつはまともに仕事なんてしないだろうし、慰謝料だっ
てもう食い潰してるだろうから、僕が働かないと。小学校は私立に入れると言っていたし。あい
つが何と言おうが、志摩子は僕の子供なんだから」
 志摩子とは、別れた妻に取られたという子供か。なんとなく志度らしい、レトロできれいな名前
である。ただ「しどしまこ」というのは、「し」が近くて発音しにくいような気がした。全くどうでもい
いことなのだが。
「志度さん、ちょっと来てるな」
 賀子の隣に座る銀山が、小声でそう言った。しかしその銀山も顔色が悪い。井上も、水野も
だ。そろそろ本格的なストレスが訪れてきたのだろう。賀子もようやく、あれこれが本格的に不
安になってきている。
 どうするか、どうなるのか。賀子は平凡に、特に不自由もない、恵まれた生活を送ってきた。
だから自分の命などについて、あまり真剣に考えたことはない。昨年だかに一度、男との別れ
話がこじれて包丁を持ち出されたことがあるが、それが唯一、真剣に死を意識した瞬間だ。
 しかし今、自分たちは誤差の範囲に立っている。
 たとえこれが、非常識なテレビ番組の企画だったとしても、ここで誰かが重圧から気の迷いを
起こし、窓ガラスを割って破片でも握ったら、物凄い速度でデッドラインに近付くことになる。隠
しカメラで監視されていたとしても、それなり広い建物だ。制止は間に合うまい。
「とにかく、落ち着かなければいけません」
 賀子はそれほど明晰ではないと自覚している頭を巡らせて、最適と思われる言葉を探す。多
分、ここで保身と保全に気を使うのが、賀子のやるべきことだ。女の自分がその役目に立った
方がいい。なんとなくだが、賀子は自分の「なんとなく」をわりと信用している。
「パニックを起こしてもいいことはありません。七人、無事に家に帰る方法を考えましょう。私達
は日本人です、人間一人の命は地球より重いという教育を受けています。そうですね。個人の
意志は尊重したいと思いますが、誰も欠けてはいけません」
 終戦前後の生まれの水野が何か言いたそうな顔をしたが、結局は黙ったまま顎を撫でた。そ
れを見ない振りをして、賀子ははったり半分の演説を続ける。
「現状維持と言うと進展がないように聞こえますが、考える時間を持つことには意味がありま
す。少なくとも今、奈津さんは遠出なんてできません。ここでは彼女を守るのが私たちの仕事で
す。いいですか。いいですね。話し合いましょう。多分それが一番いい」
 何も論理的な説明などできなかったが、誰も何も言わなかった。疲弊しているというのもある
のだろうが、やはり基本的にみな大人なのだ。それがこの状況において、良いことなのかどう
か、それは判らなかったが。
「話し合うと言っても」
 水野が腰を叩きながら言う。
「もう結論は出とるんじゃないのか。あの子の体調が悪い以上、動けんだろ」
「彼女が快復してからの話であるとか。何にせよ時間ができたんです。行く行かないの議論を
続ける時間だって無意味じゃないでしょう」
 そこで少し、志度が何か言いたげな様子を見せた。ちらりと井上を見て、それから「気になる
ことがあるんです」と声を上げる。
「あの――先程から話をしていて思ったんですが。地理や天体に詳しい方はおられませんよ
ね。もちろん、探検やらの知識も持っておられる方も。だからここがどこなのか、見当も付かな
いし、行動の指針も立てにくい」
 井上が怪訝そうな顔をした。
「まあ、普通はそんなものだろう。都合よくそんな知識のある人間がいる方が妙だ」
「そうですか? 七人いたら、一人くらいはそういう人間がいてもおかしくないと思います。別に
専門知識とかでなくて、少し詳しいという程度でもいいんです。でも、そういう方さえいない」
「何となく言いたいことは判るが。陰謀説の裏付けかね」
「結論は少し置かせてください。でもその、たとえば井上さんが普通よりも博学というか、博識だ
ろうということは、ご職業から予測できますよね。事実はどうあれ、そういう推測が出るのはお
かしくない」
「含みを感じる言い方だが」
「あ、すみません、そんなつもりは」
 小さな亀裂が生じかけたところで、水野が「まあいいだろ」と声を掛けた。
「つまらんことだ。続きを」
「はい、ありがとうございます。ええと――あとは旭さんですね。彼女は勉強ができるそうです
が、地歴は駄目なんだそうです。地歴だけ、と言うべきでしょうか」
 先程、賀子もちらりと考えたことだ。その少し過ぎっただけの考えを、彼は賀子より深く突き
詰めて、結果なにかの結論を得たようだった。
 話が続けられる。
「僕は、いわゆるいい大学を出ています。専攻は理学部化学科」
「……何を急に言い出すんだね」
「多分、普通より勉強はできます。ですが地理天体に関しては、高校でほとんど止まっていま
す。それらしい雑学はいくらかありますが、ソースは映画だの小説だのですから、眉唾的です」
「俺も」
 と言ったのは銀山だった。腕を組んで、何か考えているようである。
「まあ正直言うと、結構いい学校に行ってる。謙遜抜きで言うと勉強はできる。でも志度さんと
同じで、そういう知識はねえな。そういうことなんだろ」
「そう」
 頷いて、志度は言った。
「高学歴の人間が揃っているわりには、知識に偏りがある、と言うんでしょうか」
 なんとなく言いたいことは判る。判るが一応、賀子は手を挙げた。
「私は普通の短大卒ですが」
「俺も一応大学は出てるが、田舎の三流大学だぞ」
 賀子と水野に、志度は首を振った。
「んん、言葉を間違えましたね。学歴というのではなくて――湯田さんと水野さんも、普通の方
よりずいぶん冷静でおられると思います」
「俺は別にそんなこた思わんが。さっきから普通普通と言うが、俺も普通のじいさんだよ」
「僕はそう思わない、という前提での仮定です。多分、銀山君や井上さんには伝わっている気
がするんですが」
 というやや挑戦的にも思われる言葉を受けて、井上が胡散臭げにしながらも頷いた。
「まあ判る。能力矛盾――というのは違うか。とにかく、知的な人間が多いわりには、地理やら
天体やらに無知な集団であると。それに作為的なものを感じると。そういうことなんだろう。つま
りはやはり、陰謀説の裏付けか」
「ほとんどその通りですけど、僕の伝えたい結論はその先なんですよ」
「先と言うと」
「その手の学知に通じた人間がいないということは、つまり、いると不都合が生じるということな
のではないかと」
「もったいぶった言い方はいい。噛み砕きたまえ」
「つまり――知識さえあれば、この砂漠は抜けられるということではないでしょうか」
 そういうことになるのか。
 賀子がなんとなく思い描いてはいたが、はっきりとした形では至れなかった考えだ。なるほ
ど、それが志度の「行く」という意見の根拠にもなっていたのだろうか。
 間髪入れず、また井上の反論が飛んだ。
「根拠がない推論だ。そういったことに詳しい人間がいないのは、たまたまかも知れない。よし
んば意図的に揃えられたのだとしたって、君のような考えを持たせるための陽動という線もあ
る」
「それはそうですが、裏を言い出したらどんな推論も立てられません」
「推論で動くのはどうかと言っているんだ、私は」
「推論以外の材料が何か見付かる状況でしょうか。何も考えない、何もしないことが最善だとは
思えません。少なくとも僕は、何もせずに死んだら後悔します」
「論旨をすり替えて煽動するのはやめたまえ。動けば積極的に危険に近付くことになるのでは
と、私はそう言っている」
「よし」
 再び白熱しかけた二人の議論に、ぽんと割って入ったのは水野だった。
「志度君に賛成だな。正当性は判らんにせよ、説得力は感じる。奈津ちゃんが元気になり次
第、俺はここを出たい気がするね」
 彼にそう宣言されると、そうなのかも知れない、という気になってくる。出た方がいいのだろう
か。だが井上の言う通り、それは危険に近付く行動だという気もする。少なくともここにいれば、
当座は安全なような気が――
 唐突にあることを思い出して、賀子は井上を向いた。
「すみません、井上さん」
「ん?」
「さっき、ええと――私たちがダンボールハウスを作っている間です。煙草を吸いに出ておられ
ましたよね」
「あ? ああ。存外暖かいな、あれは」
「あの時、外におられたんですよね。それとも建物の中で吸ってらした?」
「いや、外に出たが」
「では吸い終わってから、建物の中を歩き回られましたか?」
「はあ?」
 某かの疑惑を向けられている、とでも感じたようで、井上は険しい顔をした。
「真っ直ぐに戻ったが。それがどうしたね」
「真っ直ぐ? 普通に歩けば、玄関からここまで二分も掛かりませんよね?」
「そうだろうな。だから、それがどうした」
 その答えと同時に、賀子は扉へと目をやって、ここは鍵がついていない、ということを考えた。
 それからできるだけ鮮明に記憶を手繰り、志度を見る、彼の記憶も引き出せるだろうか。
「私」
 用いるべき言葉をよく考えて、賀子はゆっくりと言った。
「そのダンボールを取りに三階へ行った時、廊下で足音を聞いたんです」
「ああ」
 志度が相槌を打つ。
「そういえば、そんなことを言っていましたね。僕は聞きませんでしたが」
「本当に? 志度さん、もう一度よく思い出していただけませんか? 私、かなりはっきり聞きま
した。全然判りませんでしたか?」
「そう言われると、聞いたのかも知れませんが――少なくとも、あまり意識はしませんでしたね」
 その答えを聞きながら、賀子はテーブルを見渡した。銀山は少し青くなっている。水野は井上
を見ていた。その井上は怪訝そうな顔をしている。
「何を言いたいのかがよく判らんのだが、私は真っ直ぐ外に出て、真っ直ぐ戻ってきたよ。まあ
煙草を吸いながら考え事をして、三十分くらいは外にいたのかな。その間、戻って来たりはして
いない。だからその足音は、他のどなたかのものだろうさ」
「それはない」
 と、水野が言った。少し声が硬い。
「あのとき湯田さんに聞かれたのはそういうことか。……井上さんが外にいて、湯田さんと志度
君が三階に行ってた間、我々はこの部屋から出てない。だな、銀山君」
「ああ。因幡って人は寝てたし、俺とじいさんが話してて――あの奈津って子も、出てなかった
はずだ」
 水野が素早く立ち上がり、身体に巻いていたダンボールを脱ぎ去ると、厳しい顔で賀子を見
た。
「自分らの足音が反響してたって感じじゃあなかった訳だな?」
「はい」
「もっと早く言って欲しかったな」
 早口でそう言って、早く全員立ち上がれ、というジェスチャーをした。
「もういっぺん見回るぞ。湯田さんの空耳でなけりゃ、他に誰か隠れてるのかも知れん。何回か
見回ってた俺たちに、声をかけて合流しなかった誰かだ」



10 足音  終

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