「誰かいるって……こと、ですか」
 もともと血色の良くない顔をより青くして、奈津は視線を落とした。
「判らないって言いたいところだけど」
 窓が開くことを確認した賀子は、再びきっちり閉め、鍵をかけた。
「私が聞いちゃいましたからね。いるんだと思います」
「だ、誰……?」
「水野さん風に言えば、私たちとの合流を意図的に避けた誰かです。犯人か、私たちみたいな
被害者が警戒してるのか。どちらでもないということもあるんでしょうか」
「それで……見回りに?」
「行くけど、あなたたちはどうするのかと思って」
 そう言いながら、部屋の隅で放心したように座っている中年女性を見る。
 因幡和枝。ほとんどずっと黙り込んでいるが、たまに思い出したように神経質な仕草を見せ
たり、泣き出したりしている。例によって地理天体に無知であることは聞いていた。しかし今の
ところ、人となりはほとんど見えてこない。
 彼女は、どういう人なのだろうか。やはり知的階層の人間なのか、行動力を備えているの
か、あるいは賀子のような、別段プラスにはならないようなパーソナルの持ち主か。主婦だと言
っていたが、学歴、職歴に何かあるのかも知れない。
 まあ別に、何でもないのかも知れないが。普通より有能な人間が揃っている、などというの
は、賀子や志度の勝手な推察に過ぎない。そもそも賀子自身が、別に有能などではない。
「私は行かないわ」
 低い、小さな声で因幡はそう言った。
「では、こちらで待ってらっしゃいますか?」
 因幡は両手で顔を覆うようにして、もう一度繰り返した。
「私は行かないわ」
「でも、待っている方がかえって不安ではないですか? 男連中は行ってしまいますし。誰かに
いてもらいましょうか」
「いいえ」
 手の中で篭もる声は聞き取りにくい。賀子はひとまず、そうですかと答えておいて、奈津に向
き直った。
「奈津さんは?」
「わ、私は――じゃあ、因幡さんが心配なので、一緒に待って、います」
「そう」
 この格好で男性陣と一緒にいるのに抵抗がある、というのもあるのかも知れない。どうにかし
てやりたいが、さすがに賀子のスカートを貸す訳にも行かない。
「無駄よ」
 両手に顔をうずめたまま、因幡が暗い、しかし今度ははっきりとした口調で言った。
「見回りなんて無駄よ」
「因幡さん?」
「誰も見付からないもの」
 そこで、因幡はゆっくりと顔を上げた。どこを見ているのかよく判らない目、しかし何かに怯え
ているらしいことは判る。顔白い顔にほつれた髪が張り付いて、老婆のように見えた。賀子の
母とそう変わらない程度の歳なのではあるが、倦み疲れている。
「因幡さん。どういうことですか。見付からない?」
「そう。誰も見付からない。決まっているじゃない」
「私は足音を聞きました。空耳ではないと思います」
 充血した目がぎょろりと動いて、賀子を睨み付けた。反射的に奈津を庇うようにして、賀子は
身体の向きを変える。
「因幡さん――」
「そうね。空耳とは言わないのかも知れないわ。そうね。いるのよ。だけど探したりなんかしても
無駄よ」
「何かご存じなんですか?」
 そこで因幡はさっと形相を変えて、ヒステリックな叫び声をあげた。
「何かって何よ!」
 賀子の背中に隠れる奈津が、ぎゅっと腕にしがみついてきた。
「因幡さん」
「何よ、その目は……! わた、私を疑ってるの!?」
「いいえ。すみません。不適切な言葉でした」
 努めて静かに謝って、賀子は両手を差し出した。
「因幡さん。落ち着いてください」
「わ、わた、私が、そんっ――」
 何事か言いかけて、因幡は頭を抱えた。そうして苦しげに唸りながら身体を丸め、幾度か深
呼吸を繰り返す。
「う、……うう、う」
「大丈夫ですか。息切れ? 過呼吸などではありませんか」
 大きく咳き込んで、因幡は首を振った。
「だいじょう、大丈夫。ごめん、なさい。取り乱して」
 ドンドンドン、と少し強くドアがノックされて、賀子はついびくりと振り向いてしまった。
「おい、大丈夫か。どうした」
 水野の声だ。因幡の怒声が廊下まで響いたか。
「平気です。あの、因幡さんと奈津さんは残るそうです」
「そうか。あんたは?」
「私は」
 奈津を振り向くと、大丈夫です、という仕草をした。因幡は自分の肩を抱いて、身体を丸めて
いる。
「……私も行きます。音を聞いたのは私ですから。奈津さん、何かあったら来て下さい。因幡さ
んも」
 奈津は頷いたが、因幡は反応しない。
「すぐに来て下さいね」
 一度奈津の肩を叩いて、賀子は部屋を出た。



 廊下には、緊張した顔の男性陣が待っていた。志度が細い鉄パイプを握っていることに気付
いて、賀子は反射的に足を止める。そんな武器というか、凶器丸出しのもの、一体どこから手
に入れたのか。
 賀子の視線に気付いて、志度がパイプを握る右手を下げた。
「机をひとつ解体して、脚を拝借しました。まあ、ないよりはいいかと」
「ああ――よく気が付きますね」
 と答えながら、言い出したのは志度自身か水野だろうと考える。井上は思い付いても提言す
るまい。今も、弁護士は志度から少し距離を置いて立っていた。
「お嬢ちゃんがたは大丈夫かね。俺が残った方がいいか?」
 心配そうにする水野に、賀子は手を振る。
「ここは鍵も付いていますし。今はそっとしておいた方がいい感じですから」
「そうか。じゃ、行こうかね。足音は三階で聞いたんだな?」
「聞いたのは三階ですが、音がしていたのは下の階だと思います。ここか一階かは判りません
が」
「ま、ひとまずこの階から回ろう」
 そうして、自然と志度を先頭にして歩き出す。その後ろに水野、銀山。賀子はしんがりで井上
の隣を保持した。ちらりと視線を交わして、同じことを考えているのだろうな、とおそらく互いに
考える。
 誰か、こと、こちらに害意のある何者かと鉢合わせたら、ひとまず志度を盾にする。水野は志
度を放っておかないような気がする、それで時間は稼げるだろう。銀山を弾除け――相手方が
銃器を所持しているかどうかという話ではなく、便宜上の言葉だ――にしながら逃げ、まあ奈
津と因幡を放っておく訳には行かないので、ここに戻って来る。
 実際そうするかどうかは置いておいて、自分の身を守ることに特化するのであれば、そうする
ことができる、ということだ。
「二階の窓から飛び降りるのは、どうなのかな。大丈夫でしょうか」
 小声で井上に話し掛けると、やはり共犯者のような苦笑を浮かべた。
「何度か見回っても見付けられなかった以上、あまり大勢が隠れているとは思えないが。撃退
よりも逃げることを考えるかね?」
「その方が現実的ではありませんか。犯人方がここにいるなら、私たちを相手にすることは想
定しているはずでしょう。数に関係なく、アドバンテージは絶対に向こうが上のはずです。こちら
の武器はあの鉄パイプだけですし、別に腕っ節自慢の集団ではありません。まあ相手が一人
で、素手の場合に限れば、何とかなるかもとは思っていますが」
「まあな。……そういえば君はさっき、七人全員無事にだのと言っていたが。それなら皆が武装
しておくべきだとは思わんかね。あれでは彼だけが頼りだ」
「私が来た時、もうそういう状況だったじゃないですか」
「別に、今から提案してもいいと思うがね」
 賀子は聞こえない振りをした。
 一人だけが武器を持っていれば、その人物は、少なくとも他の者より先には逃げられないだ
ろうという打算はある。井上にもあるのだろう。
 ただそういったこととは別に、あまり大勢の手が武器に馴染むというのは、良いこととは言え
ないのではないか、と賀子は思う。銀山ではないが、ここでは倫理でやって行くしかないのだ。
暴力という概念が入り込んでくれば滅茶苦茶になる。別に彼らを疑っているという訳ではない
が、何にせよ見知らぬ他人には違いない。頭から信用する理由はない。
 そう、それこそ、誰かが何かを知っているという可能性はあるのだ。たとえば水野は水を舐め
たが、あれには猛毒が混入されている可能性とてあった。あれが真実勇気ある行動だったの
か、それとも何かの目的のために信頼を稼ぐ手段だったのか、それは判らない。
 志度にしてもそうだ。彼は誰よりも早く建物の探索に回ったが、いま思えば、一人で行くこと
はなかったのではという気もする。たとえば何か、全員が目覚めたということを、どこかに隠れ
ている仲間に報告しに行った、ということはないか。また彼は、あの、かなりはっきりとした足音
を聞いていないと主張した。それはその、足音の主の存在を隠そうという意図があったのでは
ないか。
 井上は強固な現状維持派であり、また集団行動を希望してもいる。皆をこの場に留まらせた
い事情があるのでは、と思えないこともない。
 極端に言えば、賀子以外がみな犯人側の人間で、よってたかって賀子を騙している、というこ
とだって考えられはするのだ。もっともその場合は、彼ら全員にオスカー賞を進呈していいと思
うが。特に奈津は凄い。
「……どうしたものでしょうね」
「何だね?」
「いえ。独り言です」
 誰かを信用するのは危険だ。とはいえ、誰も信用せずにやっていくというのも難しいだろう。
たとえ賀子以外の全員が嘘をついているのだとしても、それではどのみち、どうにもならない。
 井上から幾度か向けられた、「何か知っているのでは」という疑惑の視線を思い出す。彼は
ずっと早い段階から、そういったことを強く警戒していたのだろう。素直に凄いと思う。賀子は今
ようやく、緊張と危機感とを全身に行き渡らせた。
「井上さん」
 また小声で話を続ける。前の三人は、扉を開けては中を調べるという作業に慎重さを払って
おり、こちらに注意を向けてはいない。
「井上さんは、まだ私を疑っておられますか?」
「ん? ん――」
 曖昧な顔をして、眉間を押さえる。
「まあ正直に言うと、全面的な信用はできんよ。君だって同じだろう」
「それは、まあ。でも私はわりと、井上さんのことは信じています」
「根拠なく信用されても、それはそれで気味が悪いな。……ああ、許してくれ。疑心暗鬼だ」
「仕方ないですよ。それより、私以外には誰を特に疑っておられます? 全員?」
「探りを入れているのかね、それは」
 そこで銀山がちらりとこちらを振り向いたので、近くの部屋に注意を払っている振りをした。
 銀山が正面に向き直ったことを確認してから、より声をひそめて、また話を続ける。
「そう思われるのでしたら、別に答えていただかなくてもいいですよ。お気持ちは判りますし、別
に構いません」
 井上は少し間を置いたが、賀子よりも更に小さい声で、
「……志度君はやっぱり気になるな」
 と言った。
「彼の推測はどうも突飛というか、荒唐無稽なように思える。砂漠を抜けられると言うが、論拠
が曖昧模糊だ。希薄以前に皆無だろうが。そのわりに煽動しているようで、どうも気になる」
「なるほど」
 賀子はわりあい志度の説に共感するところがあるのだが、まあ、判らないでもない。
「君は彼と二人きりで行動したそうだが、自粛した方がいいと思う。彼の素性以前の話だが」
「頭には入れておきます。井上さんが現状維持派なのは、行動派の志度さんを疑っておられる
からですか?」
「半分そうで半分違う。何にせよ、彼の意見にあまり説得力を感じないんだよ。これも彼の素性
以前の話だ」
「だけど井上さん、集団行動を望んでおられるんですよね。私たちを疑っているのに?」
「目の届かないところに行かれる方が怖い。それより君も、我々を積極的に疑っているのか。
そういう素振りは見せていなかったように思ったが」
「まあ、足音の件が釈然としないのもありますが。正確には、今やっとそういう可能性に気付い
た、と言うんでしょうか。私は井上さんと違って鈍いですから」
 いないな、隠れる場所はありませんよね、さあどうかな、という水野と志度の会話が聞こえ
る。あたりを見回している銀山の顔色が悪い。
「銀山君?」
 賀子が声を掛けると、びくっと肩を震わせて振り向いた。
「な、何」
「気分が悪いですか?」
「え。いや。別に」
「顔が青いですけど。さっきから」
「だ、誰かいたらどうしようと思ってるだけだよ。急に襲い掛かられたりしたら、あれだろ」
「あれですか」
「落ち着きたまえ。あまり怯えていると、いざという時に逃げられない」
 井上の言葉に、銀山はむっとした顔をしたが、何も言わなかった。
「そもそも、誰かいると決まった訳でもないよ。湯田さんの気のせいかも知れない」
 そう言われると、賀子も気にならないではなかったが、銀山に倣って黙っておいた。実際聞い
ていない者からすれば、そう思うのも仕方ないだろう。
 だが賀子は確かに聞いたし、それならば、誰かがいるのだ。
 ――そうね。いるのよ。だけど探したりなんかしても無駄よ。
 ――誰も見付からないもの。
 ふと、先ほど因幡が言っていたことを思い出した。有耶無耶になってしまったが、あれはどう
いう意図の言葉だったのだろうか。
「あ」
 銀山が短く、しかし妙にはっきりと発声して、その場に立ち止まった。
 全員の注視を受けて、彼は人差し指を立てた。静かにしろというポーズだろう。そのまましば
らく耳を澄ませるような様子を見せていたが、突然駆け出した。廊下の奥、階段の方へ向かっ
ている。
「銀山君!」
「どうした!?」
 青年の足は速い。ぐんぐんと遠ざかって、それから、滑り落ちるように階段を降りていく足音
が聞こえてきた。志度がはっとした顔をして、慌てて追いかける。
 残された賀子と井上、水野は、ひとまず顔を見合わせた。
「……何なんだ」
「兄ちゃん、何か聞こえたのか。俺らはどうする。行くか」
「放ってはおけないでしょ」
 と言って走り出した自分を、賀子は少し客観視する。こういう時の自分は、意外と行動的だ。
 静かな廊下に、パンプスの足音が響き渡る。何か不吉だ、この音は、などということを考えな
がら走り、突き当たった階段を駆け下りる。
 一本道の廊下に、青年二人の姿はなかった。どこかの部屋に入ったか、外に出たのだろう
か。
「銀山君! 志度さん!」
 呼んだ声が反響して、しんと静まる。
 三秒ほど考えて、賀子は走り出した。扉が開いている部屋はない、物音も聞こえない。
 玄関口の分厚いガラス扉が開いていた。暗い夜の砂漠に、賀子は身を投じる。



11 足音2  終

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