「銀山君、志度さん! いますか!」
 底なしに暗い砂漠は、鉄筋建築であろう建物の中とは違い、賀子の声を反響で増幅させな
い。叫びも頼みも、暗闇と砂に吸われて消える、そんなことを思った。建物から漏れる灯かりの
届く範囲だけが、賀子がいま足を踏み入れることのできる場所だ。それを外れてしまえば、右
も左も、上下さえも判らない暗黒の世界になる。
 そう考えた途端、不安が胃の中で爆発的に膨らんで、嘔吐しそうになった。喉を押さえて堪え
る。
「……銀山君! 志度さん!」
 相変わらず返事はない。賀子は今度は八秒ほど考え、中に戻りかけてから、また八秒考え
て、建物の周りを見回ることにした。
 先ほど色々考えはしたが、見殺しにするようなことになれば、やはり気分が悪い。一人の命
は地球より重い、などと大きなはったりを叩いた手前もある。
 ただし一周して見当たらなければ戻ろう、と考えながら、建物のちょうど裏側に回ったところ
で、志度の背中が見えた。
「志度さん」
 振り向いた志度は困ったような顔をしていた。その足元に銀山が蹲っていることに、側まで近
付いてようやく気付く。あたりに他の人影は見当たらない。
「あなた」
 賀子は一歩退いて、志度と、彼が握っている鉄パイプを素早く見比べる。地面に頭を押し付
けるようにしている銀山の、僅かに上下している背中を確認して、少しだけ安堵した。生きては
いる。
 殴られたか。頭ならまずい。意識はあるのか。
「湯田さん」
 志度がこちらへ足を踏み出してきた。もうそこで、考えるより先に身体が動いて、賀子は思い
切り右足を振り上げた。狙い通りに脱げたパンプスが、志度の顔面めがけて飛んで行く。見
事、鈍い音を立てて鼻っ柱に当たった。
「痛っ――、ちょっ」
 志度がうろたえている間に、もう片方のパンプスも脱ぎ、手に構える。目を狙い、もう一度怯
ませて、その間に取っ組み合いに持ち込む。勝ち目など万に一つもないが、ひとまず時間を稼
いで銀山を逃がさなければいけない。別に身を挺して庇うつもりなどない、誰かが人を呼びに
行かなければならないというだけだ。というか今この間に、早く立って逃げろよ、意識がないの
か、それとも立てないのかよ――我ながららしくない乱暴な言葉で考えて、賀子は顔を歪め
た。
「井上さんは凄いですね。私はあなたの身なんか案じて馬鹿みたい、いえ半分は銀山君の心
配をしていたんですけどね。ちくしょう何なんだ」
 自分にしか聞こえない早口で呟きながら、賀子は靴を振りかぶる。頭の片隅だけがささやか
に冷えていた。経緯も意図も不明だが、ひとまず志度は害意を帯びている、それは間違いな
い。足音の主やら、そういうことも二の次だ。今はこの男をどうにかしなければならない。
 渾身の力を込めて投げた二万円のパンプスは、二枚目の面に二度目の打撃を与える寸前
で、きれいに叩き落とされた。反射神経がいい。
 賀子は舌打ちして、素早く距離を詰め、鉄パイプを奪いに掛かった。これだけ体格差がある
上に、武器まで持たれていたのでは大変まずい。しかし腕に組み付いたところで、強く肩を押さ
えつけられ、動きを止められてしまった。腕力に差があり過ぎる。
「このっ」
「湯田さん、落ち着いてください。ど、どうしたんですか」
「どうしたじゃないでしょうよ――」
 膝に蹴りをくれてやろうとしたが、それも避けられて、脚を絡め取られる、その場に尻餅をつ
いた賀子に、志度の身体が圧し掛かってきた。逃れようと振るった腕も捕まえられて、地面に
引き倒される。更に暴れると、抱きすくめるようにされて、賀子は顔を背けた。シャツ越しに生
暖かい体温が伝わってくる。汗の匂いに混じって、香水、アランドロンのサムライか。その香り
がした。
「すみません、あの、湯田さん」
「銀山ッ! 井上さん、水野さん!」
 志度の胸板で自分の乳房が潰されている、それに志度も気付いたようで、何とも言われぬ顔
をした。危機感が膨れ上がる。銀山銀山。何をしているのだ。この体勢では姿が見えない、逃
げたのかまだ蹲っているのか。
 考えた直後、銀山がゆらりとこちらへ歩いて来るのが視界に入った。目が合う。歩いていない
で走れ、呆然とした顔をするな、早く状況を把握して、とにかく人を呼んで来い――という賀子
の無言の懇願はまるで伝わらなかったらしく、銀山はひどくゆっくりとした歩調でこちらに近付
いてくると、右腕を大きく振りかぶった。そうして腰を落とし、志度の背中に手刀を落とす。
「だっ」
 力が抜けた隙に、賀子は志度の下から這い出して、立ち上がり、素早く銀山の背中に隠れ
た。志度も立ち上がりはしたが、背中を押さえてこちらを見ている。隙を窺っているのか、襲い
掛かっては来ない。
「銀山君、大丈夫ですか」
「え、あ、いや、もう別に……。それより、な、何。殴っちまったけど、何?」
「何ってあなた。あなたが逃げないから、私が」
「逃げるって、それは、え?」
 混乱しているのか、要領を得ない。志度が何か考えるように、額を押さえながら空を見上げ
た。鉄パイプは地面に置いている。そうして、
「湯田さん」
 と、少し情けない声で言った。
 賀子は銀山の肩口から、顔だけ覗かせる。
「……何ですか」
「んん、何か、誤解が生じていませんか」
「誤解って」
 銀山を見上げる。戸惑ったように賀子と志度とを見比べていた。
 誤解。
 少し考えてから、賀子はもう一度、銀山に尋ねた。
「……大丈夫ですか?」
「何が?」
「……殴られたんじゃないんですか」
「え、何が?」
「あなたが」
「え?」
 賀子は口を押さえて、志度を見た。苦笑している。額が少し赤くなっていた。
 頭から水を浴びせられたかのように脳が冷えて、賀子は手のひらに冷や汗を浮かべた。
「あの、志度さん」
「はい」
「ええと……私はですね。あなたがその、銀山君を殴ったのであるな、という推測を立てまして」
 銀山がぎょっとした顔をする。
「何それ?」
「そう見えたんです。それでこう、わーとなってしまって、靴など投げてしまいまして。それも顔を
狙いました」
 ああ、ははは、と曖昧に言いながら志度が笑う。しかし目があまり笑っていない。
「……銀山君が気分が悪いと言うので、背中でも擦ろうかと思っていたんですが」
「早合点でした。すみません」
「いえ。銀山君、もう気分はいいのか」
「俺はもう大丈夫っすけど」
 と言いながら銀山が、賀子の髪に絡みついた砂を払う。女の髪に気安く触る、とは思ったが、
まあ黙って親切を受けた。
「湯田さんも、引き倒してしまいましたが、大丈夫ですか」
 打ち付けた尻が少し痛いが、顔に思い切り靴をぶつけられた志度ほどではないだろう。その
靴を脱いだ時にやったのか、ストッキングの足元が伝線していたが、それも何ほどのことはな
い。
「私は平気です。……すみません」
「いえ。倒れている人間の側であんなものを持っていれば、それはまあ、勘違いなさるのも仕方
ない、ですよね」
 そうは言うが、自分でその言葉に納得していないことは表情で判る。何なんだこの女は、俺
のハンサムフェイスに傷でも出来たらどうする、と目が語っていた。まあそれは賀子の勝手な
思い込みだろうが、相当心証を損ねたことは肌で感じた。確かに賀子も、もともと志度に対して
信用を置いていたならば、あんな勘違いはしなかっただろう。十割で賀子が悪い。
 そこにようやく、水野と井上が姿を現した。井上の視線が素早く、賀子を庇うように立つ銀山
と、乱れた衣服を直す賀子、それと対峙するようにしている志度を順に確認する。「君は――」
と志度に言いかけたところを、水野が仕草で制止した。
「何かやばいことが起きたかね?」
「いえ」
 銀山の陰から出て、賀子は脱ぎ捨てた靴を拾った。中の砂を捨てながら志度を見る。参っ
た、という顔をして空を見上げていた。
「……私が悪いんです。わーと勘違いしてしまいまして、志度さんに顔面攻撃を」
「勘違いっていうと?」
「ちょっとした見間違いで。志度さんは何も悪くないんです」
 水野はちらりと銀山を見て、彼が頷くのを確認してから、ふっと息をついた。
「よく判らんが、あんまり心配させんでくれ」
「すみません」
 靴を履いて、賀子はもう一度、志度に頭を下げた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
「いや。もういいですよ。銀山君はあなたに感謝するべきですね、身体を張って暴漢を止めよう
としてくれたんだから」
 皮肉かと思ったが、そういう含みは感じない言い方だった。賀子はもう一声、謝罪を重ねよう
と思ったが、井上が「それで」と上げた声に遮られた。
「君たちの事情はまあいいが、銀山君が急に走り出したのは何だったんだ。それは無関係な
のかね?」
 賀子と、志度も銀山を振り向いた。それはそうだ、ぜひ問い質したいところである。
 銀山は素早く視線を逸らして、一言で答えた。
「何でもない」
「何でもない?」
 という復唱は、賀子と井上、水野で調和した。それぞれ顔を見合わせてから、井上に発言権
を譲ることにする。
「何でもないということはないだろう、何だ、君は、急に駆け出したくて仕方なくなる持病でもある
のか。薬でもやっているのかね?」
「そんなんじゃねえけど。いや、ほんとに……何でもねえよ」
 更にきつい言葉を発しようとしたに違いない井上を、もう一度水野が止めた。
「あのな兄ちゃん、そういうところはぐらかされると困るんだよ。判るだろ。みんな心配したんだ
し」
 銀山は顔を背けていたが、小さな声で、
「どうせ信じてもらえねえから」
 と言った。
 井上が舌打ちして、頭を掻き回した。苛々している。
「何を言っているんだ君は。君もその、何だ。聞いたのかね、足音を? 信じるも信じないもな
いよ。君と湯田さんが聞いたなら、それは誰かいるんだろう」
「いや、そうじゃなくて――ちょっと気分が悪くなって、外に出たくて」
「それなら一言云っていけばいいだろう。あんなに全速力で駆けて。何を」
 何を隠しているのだ、と言いかけてやめたのだと、賀子には判った。
 銀山が何か言おうとするように、少し口を開き、それから言葉を飲み込むように閉じる。煮え
切らない。
「銀山君?」
 銀山を気遣うように、彼の肩へと志度が腕を伸ばす。しかし銀山は素早く身体を避け、その
上で志度の手を叩き払った。
「あ」
 自分でそうしておいて、銀山は驚いたような顔をする。志度もいい加減頭に来たのか、好青
年然としたその面に醒めた苦笑を浮かべた。
「……どうも嫌われているのかな、僕は」
「ち、違います。すんません、そうじゃなくて、俺」
 この期に及んで言い淀んだ末に、青年はかすれるような小声を絞り出した。
「霊感って言うか」
 聞き返そうにも、静かな場で、その声はひどくはっきりと響いた。井上が夜空を仰いで額を叩
く。水野は困ったように視線を泳がせた。志度は薄く口を開いて沈黙する。
 賀子はそれらを見、しばらく考えてから、他に仕様もなく、声を掛けた。
「それはその、どういうことなんですか」
「何か、気配って言うのか。外に出ねえとって言うか、あそこにいちゃ駄目だっていうか、そんな
気がして。何か、見えたような気もしたから」
 咄嗟に返す言葉を見付けられず、賀子は足元に視線を落とした。砂だなあ――と愚にもつか
ないことを考える。
 これは何か、苦し紛れの取り繕いか、それとも本気で言っているのか。
「君」
 井上が心底、呆れたと言うか、軽蔑したと言うか、そういう声を漏らした。
「何か――何というか。もしかして、自分達は霊の仕業でこんなところに連れて来られた、とで
も言うつもりかね? ここは隠り世か?」
「……んっなこと言ってねえでしょうが!」
 眉を吊り上げて怒鳴り、それから苦い顔をする。賀子は二人の間に身体を滑り込ませて、銀
山にそっと話を振った。
「落ち着いて。あの、あなたは何か、宗教とか?」
「違うってば。……だから言いたくなかったんだよ。信じてもらえねえなら、それはそれで別にい
いよ。気のせいってことでもいい。実際、気のせいだったのかも知んねえし」
 と言ってから、銀山は頭を抱えて、発するべき言葉を整理するように時間を置いた。それか
ら、
「誤解されたくねえんだけど、別に、霊感だって自称するつもりじゃねえんだよ。便宜上、そう言
った方が伝わりやすいかと思って。失敗だったみてえだけど」
 そう落ち着いた声で言った。
「俺の妄想って言うか、思い込みなのかも知んねえとは思ってるよ。でも何か、妙なもんが見え
ることはあるし、聞こえることもあってさ。それでそういう時は、ものすごく気分悪くなったりする
んだよ」
「失礼だったらごめんなさい。病院に行ったことは?」
「あるよ。その時は疲れてるんだって言われた。確かに疲れてる時に多い気はする。……別
に、誰々が取り憑かれてるとか言わねえし、変なお祓いだのもしねえよ。ただ俺が感じるだけ
で、俺が気分悪くなるだけだから。自分で言うのもあれだけど、そういう病気かもとは思う。そう
いう大袈裟な話じゃなくても……たとえば、貧血の予兆で朦朧としてる時に、そういうのが見え
る気がするとかさ。だからその後に気分悪くなるのかも知んねえし。俺だってそもそも、怪談話
とか信じる方じゃねえよ」
 なるほど、とひとまず賀子は納得した。言葉は荒いが、理性的な語調ではある。――要は、
僕は変なものが見える気がしますが、気のせいだと自分でも思っているので、あまり気にしな
いでください、ということか。
 水野が腕を組んだ。
「ま、一応判ったよ」
「どうも」
「ただな、急にあんなことされると、こっちはビックリする。まあ見えたんでも聞こえたんでもいい
が、いきなり走り出すこたないだろう。お前さんが霊感少年でも神託僧でも構わんが、妙なこと
されるのは困る」
「すんません……」
「よし、判ったんならこの件は終わり」
 少し強めに言って、水野は手を叩いた。井上と、志度も、何か言おうとしていたようだったが、
それで口をつぐんだ。
 建物に戻ろうと身を返した水野は、しかしふと振り向いて、志度を見た。
「あんたは彼を追いかけただけか?」
「え、ええ。また僕にだけ聞こえなかったのかと思ったので」
「ちょっと」
 賀子は知らず顔を険しくして、口を挟んだ。
「私は、聞きましたからね。足音を」
 銀山君の幻聴だか幻覚だかとは違って、と言外に含める。一緒にされたのではたまらない。
気のせいだと片付けて、隠れている何者かに襲撃されるとしたら、その標的は他でもない自分
たちなのだ。
「それは判っているよ」
 まだ渋い顔をしている井上がそう言った。
「君が霊だの見えるのと言い出すとは思っていない。まあ、彼が言い出すとも思っていなかった
がね」
「……私は一応、それにも理解を求めますよ。別に彼は幽霊が知覚できると言っている訳では
ありません。幻覚ないし幻聴だろうと、そう自分で客観的に結論しています」
「庇うのかね?」
「庇うって」
 絶句しかけて、井上は銀山の話を真に受けてはいないのだ、と気が付いた。与太話という
か、つまりは何かを隠すための言い逃れであるとか、そう考えているのだろう。確かにそういう
可能性もあるだろうが、しかし銀山ほど物分かりのいい話し方をする人間ならば、もう少しまと
もな理由を捏造するような気がする。
 しかし、そういった感覚論を彼に伝えるのは、骨が折れるような気がした。小さく溜め息をつ
く。
「……そう思われるならそれでも結構です。でも、この件で彼を馬鹿にしたりするのはやめてく
ださい。彼が間違っていたのは、私たちに何も言わずに走り出した、というところだけですか
ら。幻聴や幻覚は非難できません。まして彼はきちんと、それが錯覚だと自認しているんです
から」
「判っているよ」
 それは怪しいとは思ったが、ここで井上と賀子がやり合っても仕方ない。それぞれこの件は
胸の内に置いておくことにして、建物の探索を続けることになった。水野が銀山に、君は休む
か、と気遣ったが、彼は同行すると主張した。
 そして一時間後、やはりこの建物には誰も隠れてはいない、ということが結論されて、賀子は
苦々しい思いを噛み締めることになる。



12 知らないあなたのために 私は身を投じる  終

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