日を跨ぎ、時刻は深夜の一時を過ぎたが、外は明るい。
 玄関前のタイルが張られたスペースに腰を下ろし、ストッキングを脱いだ足を伸ばして、賀子
は空を見上げた。雲ひとつない快晴である。
「やっぱり、雨は降りそうにない、ですね」
 すぐ側にぼんやりと立つ奈津がそう言って、憂鬱そうな顔をした。
「もう体調はいいの?」
「はい。お陰様で、少しは」
 確かに、紙のようだった顔色は随分良くなっている。外が明るい間の方が落ち着く、というの
もあるのかも知れない。
 奈津は少し視線を落とした。意外と長い睫毛が、幼い頬に影を作る。母親は美人なのかも知
れない、などということを考えた。大人になってから化けるタイプだろうか。
 ぜひその姿を見たい、と思う。そう、中学生の少女が、中学生のままでいていいはずがない。
「いつか笑い話になるといいですねえ、このこと」
「え?」
「帰らなきゃね」
 皆、言葉をぼかしてはいても、生命の危機を意識してはいる。まだそれほど直近ではない
が、いずれ必ずそうなる。そう考えておいた方がいい。
 奈津が賀子の隣に屈んだ。
「ご迷惑をお掛けして、その、すみません」
「迷惑なんて」
 賀子は苦笑して、まだ指を入れると砂っぽい髪を掻きあげた。
「私の方が掛けていますよ。空耳で騒がせたり、勘違いで殴りかかったり」
「な、殴ったん、ですか?」
「いえ、靴を飛ばしただけだけど。思い切り顔に当ててしまいました。せっかくの男前に悪いこと
をしてしまいましたね」
 奈津は表情に迷ったようだったが、少し笑った。そろそろ、多少は気を許してくれているのだ
ろうか。
 しばらく考えてから、賀子は話を切り出した。
「ねえ、奈津さん。私がどう思っているとかではなくて、あなたの率直な意見を聞きたいんです
けど」
「はい」
「こんなことになった目的も犯人も判りませんけど、誰かが何かの動機を持っているということ
は、間違いないですよね」
「それは……ええと、そう、なんじゃないですか? これだけのことをしたなら、動機はある、でし
ょう。たとえば、気まぐれや娯楽であるなら、この過程自体が目的、ということになるのかも知
れませんが」
 当たり前のことを聞かれて、どう答えていいのか判らない、という口振りだ。それでいい。彼女
がそれを当然だと思っているという、そのことを確認したかっただけである。
 賀子は頷いて、話を続けた。
「ですよね。考えても判るものではないでしょうから、真実はこの際どうでもいいんです。井上さ
んの仰る通り、推測は推測でしかありませんから、それを指針として信じたところで、それはた
だの妄想であり暴走です」
「というと……?」
「ですから、あくまで可能性の話として聞いてください。事の規模から考えて、相手方は犯罪組
織だと仮定します。目的は……最悪のケースとして、餓死するまで放置すること。あるいは殺
害するまでに一時軟禁している、ということにしましょうか」
 奈津は顔をしかめたが、黙って頷き、先を促すようにした。
「そういった場合、不測の事態に備えて、我々を監視するシステムが必要だと思いませんか」
「カメラ……とかですか? 最近はずいぶんその、小型化していますし、どこかにあっても、ま
ず全部は見付けられない、と思いますけど」
「それならまだいいんですが。もっと詳細に監視できる、融通の利く媒体があるでしょう」
 我ながら回りくどい言い方だとは思ったが、奈津は素直に考え込んだ。すぐに顔を上げる。
「有人……?」
「そう」
 頭の巡りの速い娘だな、と少し恐ろしく思いながら、賀子は更に続けた。
「たとえば何か、この建物には、私たちには発見できない隠し部屋があるのかも知れない。地
下にでもね。私の聞いた足音から着想したんですが」
「空耳だと、思っておられない、んですか」
「いえ、繰り返しますが、可能性の話ですよ。まあ、隠し部屋の話は一旦置いておきましょう。あ
ってもなくてもいいんです。地下の人はいてもいなくてもいい。ただ、どうせ有人監視を行うな
ら、もっと私たちの近くに寄ってきた方が、効率的に仕事ができるんじゃないかと思って」
「スパイ?」
 思考の時間がほぼゼロだった。察しというより、やはりこれは頭がいいのだろう。あるいは彼
女も、元々そういった可能性を考慮していたのかも知れない。思考は賀子よりも回りそうだ。
 奈津は膝の上で手を組み、きゅっと眉を寄せた。
「私たち七人の中に、犯人側の人がいるということ、ですか?」
「可能性の話です。別に積極的に疑う理由はありませんが、といって盲信する義理もないでしょ
う」
「どうして、私にそんな話を……その」
「あなたがそれだという可能性は、ものすごく低いと思っているので」
 少し奈津の肩が跳ねる。
「あなたの率直な意見が聞きたいんです。どう思いますか」
「どう、と言われても」
 奈津は困ったような顔をしたが、猛烈に考えているのだということは、視線の動きを見れば判
る。
「いるとしたら、誰か、ということ、ですか?」
「何でもいいんですが。私の推測が滑稽だとか、ここが矛盾しているとか、気付いたことがあれ
ば何でも」
「特に矛盾しているとは、思いません。湯田さんが仰ったように、効率的だと、思います。何か
目的があるなら、それに適うように、誘導もできるでしょうし。でも」
 言いかけて言葉を切ると、奈津は少し強い視線を賀子に据えた。
「湯田さんはなぜ私を信用するんですか? 印象?」
「第一の理由としては、非力であることですね。まあ実は格闘技の有段者、ということもあるの
かも知れませんが、体格が華奢すぎます。成人男性四名を監視するに際して、適した人材だと
は思えません」
「私ひとりだとは限らないんじゃないですか。志度さんあたり仲間とか」
「それはそうなんですが。こういう会話を交わしている時点で、やっぱりそれっぽくないなあ、と」
「……納得です」
 そうは思えない言い方だったが、それは流しておくことにする。
「他に奈津さんが思うところはありますか?」
「……井上さんは、違うと、思います」
「それはどうして?」
「怯え方、というか、その、疑心暗鬼みたいな……様子が、演技だとは、思えません」
「演技に見える人がいます?」
「それはその、判りません、けど……志度さんが」
 判らないと言いつつ、はっきりと個人名だ。皆、考えることは同じなのだろうか。あの手の爽
やかな男は、どうしても胡散臭く見えるというのもある気がするが。
 奈津はフォローするように手を振った。
「あの、疑っている訳じゃ、ないです。でも、その、隠し部屋ですか。そういうのがあるとすれば、
足音を聞いていないと言っている志度さんが、気になるかな、って」
「足音の件、やっぱり奈津さんも気になります?」
 はい、と奈津は答えた。
「湯田さんが、空耳のような曖昧な経験を、ああして大袈裟に吹聴するような方だとは思いませ
ん。だから、銀山さんではないですけど、ストレスから来る幻聴だとか……そういうのでなけれ
ば、本当に聞こえたんだと、思っています。別に、謎の人の足音でなくてもいいんです。建物の
構造が変わっていて、すごく変な反響をしたとか、そういうことも、あるでしょうし」
 まあ確かに、足音の正体を証明できない賀子としては、絶対に幻聴でなかったとも、反響で
はありえない音だったとも断言することはできない。確かに聞いた、と、自分では思っているの
であるが。
「足音がしたのか、しなかったのは、それは、私には判りません。志度さんも、意識しなかった
というだけで、聞いたかも知れない、とは言っていた訳ですし」
 明確に誰かを疑う根拠はありません、と締めて、奈津はまた、困ったように笑った。
「お役に立てなくて、あの、申し訳ないです」
「いえ、とんでも。……ねえ奈津さん」
 賀子は背後のガラス扉を見やってから、声をひそめた。
「もし、誰かがすごく疑わしい状況になったりしたら、どうします?」
「どうって、何が、ですか」
「たとえば、私とあなたと――井上さんとで。こっそり荷物を持って夜逃げする、とか。井上さん
は出たがらないかも知れませんけど」
 ショックを受けたように、奈津は薄く口を開いた。
「……それは」
 と言葉を途切れさせた少女は、一度深呼吸してから、小さく言った。
「それは違うと思います」
 賀子は一度頷き、もう一度頷いて、立ち上がった。
「判りました。ありがとう」
「湯田さん」
 追いすがるように奈津も立ち上がり、賀子の袖を掴んだ。その手を握って、賀子はまた頷く。
「私も、そういうのは違うと思います。あなたの意見が聞けてよかった」
「全員で、帰りたい、です、わたしは」
「私もです」
 少し迷ったが、奈津の頭を撫でる。小柄なこともあって、見た限りでは、少女というよりはまだ
子供のようだ。ただこの小さな頭には、目一杯の聡明さと良心とが詰まっているのだろう。それ
は何とも得がたく、やりきれないことのような気がした。
 と、背後の扉が開いて、二人でそちらを振り向いた。
 火の点いていない煙草を咥え、コンパクト式の携帯灰皿を持った井上が立っている。顎を引
いて賀子らを見、少し眩しそうに目を細めた。
「……いたのか」
「おはようございます。と言うべきかどうか、微妙ですが」
「おはよう、ございます」
 おはようと答えて、井上は咥えていた煙草を胸ポケットに仕舞った。
「あの人、因幡さんは一緒でないのかね。さっき水野さんが探していたが」
「一人になりたいと仰って、別の部屋に移られたんですよ。三階にいらっしゃると思いますが」
「あの人もよく判らんなあ。何か言っていたかね?」
「いえ、あまり話はできませんでした。やっぱり体調も悪いようなので、それは心配ですね」
 そんな雑談を交わしていると、上から「おおい」という声が降ってきた。ぎょっとして見上げる
と、水野が三階の窓から身を乗り出して、こちらに手を振っている。
「お姉ちゃんがた、あ、井上さんもいるのか。そこに因幡さんもいるかね?」
「いえ。三階のどこかの部屋にいらっしゃると思いますが」
「あんだって?」
 賀子は両手で拡声器を作り、大声で繰り返した。
「三階のどこかにいらっしゃると思いますが? どうされました?」
「や、つまんねえ用事なんだがな。ありがとよ」
 と言って、水野は身を引っ込めた。
「吸ってもいいかね?」
 尋ねた井上に、奈津はどうぞと会釈して、さりげなく少し離れた場所へと移動した。賀子はま
たタイルに腰を下ろす。
「私にも一本いただけます? ――あ、いえ、やっぱり結構です。限りがありますね」
「いや、別に一本くらいいいが。君も吸うのかね?」
「普段は全然吸わないんですけど」
 井上は自分の煙草を咥え、火を点けると、箱とライターとを手渡してくれた。赤いボックスのア
メリカン・スピリットである。無農薬栽培の煙草を吸ったところで、健康に悪影響を及ぼすことに
は変わりあるまいが、まあこだわりがあるのだろう。
 ありがたくダンヒルのライターで火を点け、濃い煙を吸い込んだ。
「以前は煙草もダンヒルだったんだがね。手に入らなくなってしまって」
「うちの父はずっとゴールデンバットですよ」
「渋いな……」
 それぞれ、静かに煙を燻らせる。会話もなく三人、のぼってゆく煙なり、ピーカンの空なりをぼ
んやりと眺めていた。
 そのまま何をするでもなく、五分、あるいは十分ほどは、皆で呆けていたのかも知れない。入
り口の扉が開かれて、その場に溜まっていた緩い空気がようやく流れ出した。三人でそちらを
振り向く。
「水野さん」
 三人の顔をそれぞれ順繰りに見た水野は、最終的に賀子に向かい、複雑そうな顔で言っ
た。
「因幡さん、いなくないか?」



13 疑うべきものは  終

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