因幡に割り当てた分のペットボトルが一本と、同じく彼女の栄養食が数箱なくなっているよう
だ、ということを確認して、水野はゆっくりと賀子に問うた。
「最後に見かけたのはいつだい」
「三時間くらい前ですね。ふらっと私たちの部屋から出て行かれて」
 ――別の部屋に行くわ。
 あの中年女性はそう言って、よろりとした足取りで部屋を出て行った。大丈夫ですかと声を掛
けた賀子に、心配しないで、用がないならなるべく来ないで、と答えた。一人になりたいのだろう
と思い、普通に見送ってしまったのだが。
 因幡の所持していた荷物類もなくなっている。傘を持参していたが、それもだ。
「一人で出て行ったのか?」
 井上が苛立った様子で呟いた。窓から外の様子を確認した賀子は、そういうことになるだろう
か、と心中で返答する。
 砂漠は相当――遠くまで見渡せる。ずっと平坦な地面が続くという訳ではないが、何も遮蔽
物がないためだ。その分、遠近感が狂っている気はするのだが。
 つまり出て行ったのだとすれば、おそらく、もうかなり遠くにいるのだということになる。
「追い掛けるのは無理だ――よなあ。方角の見当も付かん」
 水野がそう言って、隅から引きずってきたパイプ椅子にぐったりと腰掛けた。
「何だったんだ、あのおばちゃん」
 おそらく全員がそう思っている。まさかあの女性に、一人で勇み飛び出すようなバイタリティが
あるとは思っていなかった。これが志度であったなら、ああ行ってしまったのだな、と納得でき
るところなのだが。
 そこでふと思い立って、賀子は水野を振り向いた。
「志度さんと銀山君は? いるんですよね?」
「ちゃんといるよ。今は下で寝てる。銀山君はイビキが大きいが、ありゃ口呼吸なのかね。身体
に良くない」
「そうなると、本当に一人で出て行かれたんですね」
「無茶をする」
 絞り出すように井上が呻いて、眉間を押さえた。
「一人で何ができるんだ。まさかこんな愚かな――くそ」
 愚かか、と賀子は声に出さず繰り返した。その評が正しいのかどうかは、今は誰にも判らな
い。もしかすると明日にでも、彼女が救助隊を連れてきてくれるかも知れない。もちろんどこか
で野垂れ死ぬかも知れないのだが。既にそうなっている可能性さえある。ここは、右も左も判ら
ない砂漠のど真ん中だ。
 井上がもう馴染みの、探るような視線を向けてきた。
「君は何も聞いていないのかね?」
「……聞いていたら、少なくとも皆さんが起き出すまでは引き止めますよ」
 そこで、それまで青褪めた顔で黙っていた奈津が、賀子のブラウスの袖を引いた。
「湯田さん」
「何か聞いたんですか?」
「い、いえ。そうじゃなくて、……その」
 言葉を濁して、奈津は顔を俯けた。視線が井上と水野の間を泳ぐ。
「お腹、痛みますか?」
「あ、いえ……いえ。はい」
「では、すみません。ちょっと奈津さんに薬を飲ませて来ますね。すぐ戻ります」
 二人の男は気まずそうな顔をして、おおだのああだのと曖昧に答えた。さすがの井上も、月
経中の少女にはあたりが柔らかい。
 奈津と部屋を出て、扉を閉める。
 静かな廊下を歩きながら、賀子は小声で尋ねた。
「何か気付いたことがありました?」
「気付いた、というか」
 唇に指をあてて、考え込むような顔をする。
「自分の意志で出て行ったとは、限らないかなと、思って」
「つまりそれは、どういう?」
「ですからさっきの、その、隠し部屋――とか。監視者に拉致された、あるいは因幡さんご自身
が監視者であって、何かの事情で篭もることにした、とか。別に、隠し部屋、じゃなくてもいいん
ですが。組織の本部みたいなところがあって、こっそりそこに行った、とか」
「水と食糧がなくなっているのはカムフラージュ?」
「判りません。そういうことも、あの、考えられるかも、と思っただけ、ですけど」
 突き当たりの階段を少し降り、自分たちの姿が三階廊下から遮断されたところで、賀子らは
足を止めた。
「奈津さんは、そういう可能性が高いと思います?」
「判り、ません。確率計算できるだけの情報が、ありません」
「因幡さんの失踪にあたり、私たちが行うべきことは何でしょうか」
 奈津はしばらく考え込んでいたが、やがて首を振った。
「何も。何も出来ないという範囲の中でなら、できることは、少しありますが。考察すること、推
測すること、それに流されないようにすること。混乱から生じた行動が、いい結果に結び付く可
能性は、とても、低いと思います」
「捜索に出るべきではない?」
「無意味だと、思います。アキレスは亀を追い越せますが、亀と亀なら、それこそ永遠に、差は
縮まり、ません。この広い砂漠では、到達点だって、重ならないでしょうし」
 記憶の奥底から知識を引き出して、有名なパラドックスの暗喩だ、ということを確認した。この
少女は普段、友人たちとどんな会話を交わしているのだろうか。同世代の子供たちからすれ
ば、別の世界の生き物のように見えるのではないか。少なくとも賀子には今、少しそう見えてい
る。
 奈津は自分の身体を抱き締めた。
「根拠のない、私の所感ですけど。やっぱり、自分の意志で出て行かれたのかなと、思います」
「そうですか」
「怯えていたから」
 そう言って目を伏せる。
「……もう、どうにも、ならなくなってしまったんじゃ、ないでしょうか。私、そういうのは、判りま
す。怖くて、じっとして、いられなくて」
「でも奈津さんは、そういうことはしませんよね」
「できない、です。考えるだけで、いつも、行動できない」
「行動しない方がいい、と考えるからなんじゃないですか。それはとても理性的で、凄いことだと
思いますよ」
 少しだけ微笑んだ奈津は、しかし大きな目に涙を溜めている。やがてそれが容量を増して、
ぽろりと頬を伝った。
「帰りたい」
 これほど切実な懇願を、賀子は今までの人生で、何度聞いたことがあるだろうか。
 奈津は声を震わせて、自分を抱く腕に力を込めた。
「家に、帰りたい。おじいさまと、おばあさまが、心配、してるから」
「奈津さん」
「助けて」
 他に何もできず、賀子は奈津の頭を撫でた。
 もらい泣きをするほどの優しさは持ち合わせていないが、ひどく切なく、胸が軋むような気が
した。



「だ、大丈夫なのかね?」
 目を腫らして戻った奈津を見て、井上が賀子に尋ねてきた。多分、と答えて腕を伸ばし、彼女
を視線から庇う。
「それより、どうします? どうしようもない気はしますが」
「どうしようもないな。とりあえず志度君たちが起きたら、また話し合おう。彼は今度こそ出て行
くかも知れないが、もう止められないだろうよ」
 井上には随分、因幡の失踪が堪えているようだった。倒れるのではないかと心配になるほど
顔色が悪い。
 ぼんやりと窓の外を眺める水野が、はあ、と声に出した。
「一日も待てなかったのかねえ。体調悪そうだったのに。……お、銀山君だ。少年!」
 窓の下、外に出たらしい銀山が、何事か答える声が聞こえた。ちょっと上がって来い、と水野
が指示すると、しばらくして、寝癖を直しながら姿を現した。
「よ。おはようさん」
 軽く右手を挙げた水野に会釈して、銀山は眉をしかめた。暗い空気を嗅ぎ取ったのだろう、
居心地悪そうにする。
「……何かあったんすか」
「あったんだよなあ。因幡さん、いなくなっちまった」
「え?」
 なぜか確認するように賀子を見たので、そうですよと頷いてやる。
「……出てったってこと? いつ?」
「判りません。私が三時間くらい前に話したのが最後です」
「三時間前?」
 と言って、彼は腕時計に目を落とした。何か考えるように視線を持ち上げ、もう一度腕時計を
見て、小さな声で言った。
「……俺、そのくらいの時間に会ったな。外で」
「外?」
 井上が身を乗り出して、険しい顔をした。
「まさか、君――」
「や、知らねえ、知らなかったっすよ。知ってたら止めてる。トイレの帰りか何かかと思って」
「何か言っていなかったか?」
「え。ええと」
 言いよどんで、視線を泳がせた。賀子から見ても怪しげな態度に、もちろん井上の顔はより
険しくなる。
「言いなさい」
「み、見えるのかって聞かれた」
 水野が窓を閉めて、真っ直ぐに銀山を見た。
「見える?」
「ゆ、幽霊とか」
 賀子は咄嗟に井上に駆け寄り、彼の肩を掴んだ。なんとなく次の行動が予測できたからだ。
即ち、どんな形であれ怒りを発露するだろう、と。
「落ち着いてください」
 言い含めるように井上に告げ、「それで?」と銀山に続きを促す。銀山は痛そうな顔をした。
「……まあ、見える気がするって答えた。もちろん、気のせいだと思うって言ったけど。すげえ気
にしてたみたいだった」
「不用意な」
 やはり憤りを露わにして、井上が頭を抱えた。
「あの手の女はな、そういう与太話を頭から信じるんだよ。だからインチキ宗教だの霊感占い
だの、馬鹿な詐欺に引っ掛かる。君、妄想狂だか虚言癖の持ち主だか知らんが、それで人を
煽ったら犯罪だ!」
「井上さん、あんたそりゃ言いすぎだ。彼を責めるのは筋違いだろ。彼の話が原因だったとして
も、因幡さんの行動は自己責任だ。子供じゃないんだから」
 宥めに入った水野にも、井上は厳しい視線を向けた。
「しかしですね」
「しかしもかかしもない。大体、そりゃ犯罪なのか? ナイフ持った殺人鬼がいるとか言ったら、
そりゃ脅迫とか、何かの罪になるのかも知れんが、幽霊は襲って来ないだろ。まあ襲ってくるよ
うな話もあるんだろうが、彼は自分に見えるだけだと言ってたし。湯田さんの空耳と話は同じだ
ろう。少なくとも、ここから出た方がいいなんて教唆にはならんと思うが」
 と一度に言って、ちらりと銀山に視線をやった。
「――ま、彼も不注意ではあったと思うがな」
「すんません。まさか、こんなことになるなんて」
「まあお前さんが原因かどうか、実際のところは判らんしな。それより、他に何か言ってなかっ
たか?」
「特には……。俺、あの人苦手だったし」
「そうか」
 ふと気付くと、奈津が身を小さくして震えていた。大声で女の子を怯えさせることは何らかの
犯罪に該当しないのか、という思いを込めて井上を睨むが、弁護士は視線に気付かなかっ
た。
 銀山は青い顔で床を眺めていたが、しばらくして顔を上げた。
「俺、探しに」
「馬鹿もん」
 言い切らないうちに、水野がぴしゃりと跳ね付ける。
「お前さんまで戻らんなんてことになったら、俺らがどれだけ不安になるか判らんか。落ち着け」
「だって」
「さっきも言ったが、お前さんに責任はないよ。あの人の選択は、あの人の自由意志なんだか
ら。その上でお前さんが出て行きたい、この砂漠を抜けられる気がするってんなら、そりゃ俺は
止めないが」
 銀山は黙って頭を下げた。
 急激に疲労が押し寄せてきたような気がして、賀子はふらりと傾いだ。なんとか踏み止まり、
丁度いい位置にあった井上の肩へと額を預ける。
「湯田さん」
 戸惑うような間を置いてから、ゆっくりと背中を撫でられる。意外にもそれは、ひどく優しい仕
草だった。普段はそれほど口を利かない父親の顔が、ふわりと頭に浮かぶ。
 ――帰りたい。私だって。
 とても強く、賀子はそう思った。



14 まずひとりが消える  終

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