「僕は行きます」
 今までのような提案や示唆ではなく、それは宣言だった。
 賀子は何も言わなかった。おそらくもうどんなことを語っても、引き留めることは出来ないと思
ったからだ。既に賀子は己の言い分を主張してあるし、ならば彼は、それを踏まえて、なおこの
結論に至ったということである。それは――それこそ、彼の自由意志だ。
 賀子の代わりのように、隣に座る井上が深く深く溜め息を吐き出した。
「……本気か」
「はい。今日中に」
 揺るがない返事を述べて、志度は小さく頭を下げる。
「すみません。でも丸一日、経ちました。これ以上は待てません」
「一日しか経ってない。じっとしていれば、少なくとも半月は持つんだぞ」
「僕は救助を期待していません。いずれ出るつもりでいました。そして絶対に、それは早い方が
いいと思うんです。できれば全員で一緒に」
 井上はゆっくりと首を横に振る。当初から思ってはいたが、どちらも頑ななのだ。流されると
いうことをしない。それは悪いことではないのだろうが、
 ――残念だ。
 賀子はそう思う。本当に、全員、因幡も含めて、バラバラにはなりたくなかったのだが。
 腕を組んで話を聞いていた水野が、「ま、止められんわな」と諦めるように言った。
「だが、どうしてそう焦るね? 別に社運が君に掛かってる訳でもあるまいに、そこまで仕事が
大事か」
「それも確かに、ない訳ではありませんが。ですがそれ以上に、犯人がここへ戻って来るかも
知れない、ということを危惧しています」
「遭難や猛獣の可能性よりもか」
「はい」
 ち、と年寄り特有の、別に悪意からではないのだろう舌打ちをして、水野は頭を掻いた。
「まあ、そうだな。止められんよ。君がいなくなると、ちょいと心細くなるがな」
「……すみません」
「井上さんは行かないんだな。銀山君はどうする」
 話を振られた銀山は、志度と井上、それから賀子の顔を見た。そして水野へ視線を戻すと、
無言で首を横に振った。
「そうか」
 と言って、水野は賀子を見る。
「湯田さんは?」
「私は、奈津さんの行く方に付きます」
 賀子は別段、絶対にこうした方がいいなどという、確固たる意志は持っていない。全員が行く
と言うのなら行くし、留まると言うならば、やはりそれに従うつもりでいた。付和雷同というか、優
柔不断なのだろうと自分で思う。
 その中で指針を定めるとするならば、やはり奈津だ。もう因幡はいない。中学生の少女を、
男連中に任せるのは不安だった。
 テーブルに肘をつき、両手で顔を覆っていた奈津は、少しだけ顔を上げて、潤んだ目で志度
を見た。
「行ってしまう、んですか」
「……そのつもりだよ。ごめんね」
「一人でも?」
「うん」
「夜になると、外は本当に、暗い、です。大人は、男の人なら、それは平気、なんですか」
 その言葉で、井上が素早く志度の顔色を窺う仕草を見せた。野宿が不安だと言っていた彼
は、なるほど、夜の闇も苦手そうだ。井上はこの施設というよりも、電気の灯かりに執着してい
るのかも知れない。それは賀子も少し、いや、とてもよく判る。
 志度は緊張させていた表情を少しだけ和らげ、かすかに笑った。
「僕は大丈夫だよ。君は、君のしたいようにしなさい」
「……わ、私は、その」
 賀子を見る。なぜ皆そうするのだろうと思いつつ、賀子は視線を逸らした。賀子ではなく、奈
津自身が答えを出した方がいい。
 指先を擦り合ながら、奈津は小さな声で言った。
「もし、私が付いて行くとしたら、……足手まとい、でしょう」
「そんなことはないよ」
 即答して、志度は奈津の目を覗き込む。真っ直ぐな視線だった。
「君が付いて来るんなら、僕は大人として責任を全うします。君はどうしたいの?」
 少女のか弱い仕草は、ひたすら戸惑っているように見えるのだろうが、そうしながら彼女は考
えているのだということを、賀子は知っている。何をするか、何が出来るか、誰と行動を共にす
るか。推測と考察と打算とを交えて、奈津は素早く思考を巡らせている。
「私、は」
 全員が、その結論に注目した。
「私は、まだ、決められ、ません」
 そう言って、静かに志度を見る。
「あと一日、待って、もらえませんか。一日だけ」
「でもね」
「私、今日は、体調が……その。二日目は、一番、つらくて」
 伝家の宝刀を抜いた奈津に、志度もやはり怯んだ。計算だろうなと賀子は考える。井上の反
論でも水野の説得でもなく、彼女の懇願だけが志度を引き止められる手段だろう。志度は頑な
ではあるが、まともな大人の男だ。少なくともそう見せている。
 志度はおそらく無理をして、笑顔を作った。
「判りました。一日待つから、ゆっくり考えて」
「ありがとう、ございます。すみません」
 場の空気が少しだけ緩む。その隙を見て、賀子は立ち上がった。
「奈津さんと、少し話をしてきます」
 誰も何も言い出さないうちに、さっさと扉へと歩き出す。すぐに奈津も付いて来て、二人で部
屋を出た。
 隣の女性部屋に移り、扉に鍵をかけて、そこに凭れかかる。
「お見事でした」
 賀子の言葉に、奈津は控えめに微笑んだ。そうして、ぎゅっと自分の身体を抱き締める。
「……でも、どう、しましょう。湯田さんご自身は、どうしたい、んですか」
「私はやっぱり、井上さん派なんですけど」
「救助を待つ、という?」
「食糧は半月分あるでしょう。二日目の時点で出て行こうと言われても、踏ん切りが付かないと
言うか。そこまで切羽詰まった危機感がないからなんでしょうね。志度さんの言うことも判るん
ですが。奈津さんはどうしたいんです?」
「わたし、は」
 視線を落として、苦しそうに目をすがめた。
「私も、あまり救助は期待できないと、思って、います。少なくとも、ここにいる限り、犯人の目的
は……何かは判りませんが、限りなく成就に近くなり、ますよね」
「そうでしょうか?」
「その。この建物に立て篭もることは、犯人が予想していて然るべきこと、ですよね。ここから出
たくないという井上さんのご意見は、良し悪しは別にして、ごく普通、だと思います」
「ああ、なるほど」
「私は、犯人には悪意があると、思います。いえ、悪意はともかく、害意ではあると、思います。
だから、彼らの計画の中には、居たく、ありません」
「つまり、ここから出たいと?」
 奈津は小さく首を振った。否定でも肯定でもない、返事を保留する仕草だ。
「決められ、ません。砂漠を抜けられるのか、どうか。志度さんのことは、信用しても、いいかな
と、思いますけど」
「意見が変わりましたね。どうして?」
「何らかの事情で、一人でここを離れたいのなら、私を待たない、でしょう。逆に、私たちをここ
から連れ出したいなら、もっと説得に熱心でもいいと、思います。一人でも行くなんて、言い出さ
ない、かと」
「人数を分断することが目的ということは?」
「それなら、初めから分けておけば、いいような気がする、んですが」
 反論する要素は見付からない。一人で離れたいのなら奈津を待たない、という部分には下世
話な指摘が思い浮かんだが、口には出さないことにした。
 突然、扉がノックされる震動が身体に伝わり、賀子はびくっと跳んだ。
「すまん。ちょっといいか」
 井上の声である。奈津が頷いたので、賀子は開錠し、扉を開けた。
「どうも」
 扉に手をかけた井上は、室内には足を踏み入れず、ちらりと奈津を見る。
「もしかして行くつもりなのか。君も」
「考えて、います。できるだけまとまっていたい、というのは、ありますけど」
「彼を信用できるのかね?」
 奈津は視線を泳がせて返事を濁した。代わりに賀子が答える。
「志度さんの名刺はよくできていましたね」
「あんなものは簡単に偽造できるだろう。まあ本物かも知れんがね。サラリーマンを雇ったのか
も知れない」
「そこまで積極的に疑う根拠がありますか」
「疑っている訳じゃない。可能性の話だ。誰かが獅子身中の虫かも知れないということは、別に
それほど突飛な話でもないだろう」
「それは判りますが。私たちが行くと言ったら、止めるんですか」
「そうしたいが、どうせ聞かないんだろう。一応、最後の説得に来たんだが」
 賀子が返事に困って俯くと、井上はそこで言葉を切り上げた。額のあたりに視線を感じる。
 そっと顔を上げると、井上は少し目を細め、眩しそうな顔で賀子を見ていた。
「……何か?」
「いや」
 ぎくりとしたように目を逸らして、井上は苦い笑いを浮かべる。しばらくその表情を保っていた
が、ふっと、緊張を緩ませたように顔から力を抜いた。
 ただの五十男の、疲れた、計算も悪意もない素顔がそこに現れる。常に張り詰めていた彼
が、これほど無防備な表情を見せるのは、おそらくこれが初めてだった。
「君は、二十――二歳だったか」
 噛み締めるような、ゆったりとした声だ。賀子が頷くと、井上は顔面の右側だけで笑った。
「愚女が同じ年でね。いや、さっき二十三になったんだが。君ほどしっかりした娘じゃないが、ま
あ勝ち気で跳ねっ返りで。ここしばらくは私に挨拶もしない。いい成人があんなで、嫁の貰い手
が心配だ」
「……そうですか」
「ああ。最近は、何なんだろうね。仕事が忙しくて、あれにも家内にも構ってやれなくてな。外に
女がいるとか、そんなことまで疑われていたらしい。事実無根だがね。まあそうは見えないんだ
ろうが、これでも家族だけは大事に思っているんだよ。だからせめて、誕生日くらいは一緒に
祝ってやりたかったんだが」
 怒っているんだろうなあ――と言って、ひどく悲しそうな顔をした。
「欲しがっていたカバンを買ってやりたかった。少しでも笑ってくれるかもと思うとな。物に頼るな
んて、まあ情けない父親だが、他に方法が判らなかったんだ。笑うかね? 君のお父様はこん
な馬鹿者ではないよな」
 自嘲するように溜め息を漏らして、井上は顔を背けた。ぼんやりと足元を見ている。
「……君のようにきれいでもないし、何か取り得がある訳じゃないが、心の優しい子なんだよ。
親馬鹿だと思うかね? でも、優しい子なんだ。あれが高校生の時かな。私が家内とくだらんこ
とで揉めて、家を飛び出したことがあったんだよ。一日外泊をして、戻ったら、顔を合わせるな
り平手打ちが飛んできた。どこで何をしようと勝手だが、ママを心配させるなと言うんだ。今も多
分、同じことを言って怒っているんだろうな。駄目な父親だ。本当に」
「そんなこと」
 奈津が、少し大きな声を発した。
「そんなこと、ないです」
 そう言って赤い目で井上を見上げる。そのまま少し睨むようにしていたが、やがてふと視線を
落として、かすか寂しげな顔をした。
「私のお父様は、私の誕生日なんて、覚えて、いません。井上さんが、私のお父様だったら、覚
えていてくれるだけで、私は嬉しいです」
「旭君」
「駄目なんてこと、ありません。……本当です」
 井上は顔を伏せて、片手で目元を覆った。
 ありがとうという、かすれるような声が、賀子の耳に届いた。

「私は、行きます」
 井上が去ってからしばらくして、奈津ははっきりとそう言った。長い睫毛は濡れているが、表
情はもうしっかりと前を向いている。泣いてはいない。
「奈津さん」
「決めました」
 すっ、と、試すような強い眼差しで賀子を見る。
「ですが湯田さんは、ご自身で決断を下してください。私は、大丈夫ですから」
「……でも」
「私は、私のために一日待ってくれた志度さんを、信用します。あの人の前向きさと、勇気を、
信用します。だから湯田さんは、私のことに構わず、決めてください」
 説教されている。自分に寄りかからず、己で決断せよと、この小さな少女に言われている。
 賀子は――
 奈津の白い、小さな足を見て、置くべき場所へ心を落ち着けた。
「奈津さん」
「はい」
「私の靴を履いて行ってください。少しヒールがありますが、他の人の靴よりは、まだ履けるでし
ょうから」



15 そしてふたりも消える  終

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