「志度さん、随分持ってったね」
 志度と奈津が持ちきれなかった分の、彼らの水を再分配しながら、銀山がそう言った。一
応、まだ因幡の分には手を付けないことになっている。
 志度はダンボールと、パワー編みのストッキングと、己の腕力とを最大限に活用して、八本の
ペットボトルを束ねて引きずって行った。奈津が二本。何事もなければ、彼らもひとまず、半月
弱はやって行けるだろうと思う。配当の食糧はすべて持って行った。
「大丈夫かね、彼らは」
 ベジタブル味のブロックを齧りながら、水野が心配そうにする。井上は奈津が出て行ったこと
が気に入らないらしく、残り少ない煙草を外で吸っていた。
 「ついでに因幡も拾えたら」ということで、志度は、銀山と因幡が最後に会話を交わした時間
――夜明け際だった――に、太陽が出かけていた方向を目指すと言った。確かに、賀子が因
幡であり、あてのないどこかを目指すことが目的であれば、そちらへ行くだろう。少しでも明る
い方へ。
「なあ」
 水野が銀山を見る。
「俺は幽霊だの何だのって、信じたことはないが、どんなもんが見えるんだ。死んだ先祖とか
か?」
「知らない顔っすね。ベタなのだと、やたら髪の長い女とか、血だらけのじいさんとか」
「ほんとにベタだなあ」
「だからまあ、俺の妄想なんでしょ」
 そうだろう。幽霊などは存在しない。少なくとも賀子にとってはそうだ。人のいない森で倒れる
木は音を立てない。
 そんなことを考えて、賀子は顔に出ないよう苦笑した。ぴったりとした符号である。この広い砂
漠は、まさに無人の森だ。自分たちが倒れたところで、その音は誰にも聞こえない。
 そこで賀子は、何とはなしに水野を見た。痩せた、年のわりには若く見える、精悍な男であ
る。疑惑のフィルタを通して見れば、やはり怪しく見える一人でもある。彼は今までにほとんど
動揺や、焦燥の様子を見せていない。賀子が言えた義理ではないし、年の功か、とも思うので
あるが。
 また彼は志度に同行するかも知れないと、賀子はなんとなく思っていた。彼は確か、志度の
「抜けられる」という説を支持していたのではなかったか。
 水野の生命力に満ちた目が、ふと賀子を捕えて、すっと眇められた。
「不安になってるか、湯田さん」
「それは、そうです」
「健全だな」
「え?」
「なあ銀山君」
 笑うと、口元の皺がより深くなる。
「お前さんは一昨日、何を見て逃げ出したんだね。幽霊だと言ったなあ。不吉なものか?」
「え。あ、いや」
「悲惨なヤツか。こう、グロい」
「ま、まあ」
「やっぱり怨念とか、そういうのがありそうなのが見えるわけか。老衰で孫に囲まれて大往生み
たいなのは、みんな成仏するのかね」
「宗教的なことはちょっと判んねえすけど、そういう幸せそうなヤツは見たことないっすね」
「俺が昔から心霊写真とか信じられないのは、あれだよ。死んだヤツがみんな幽霊になってた
ら、写真なんか、人間より幽霊の方が多く写ることになるだろ。幽霊ぎゅうぎゅう詰め」
 銀山が少し笑った。水野も「だろ」と肩を竦める。場を和ませようとしているのだろうと考えて、
賀子も話に乗った。
「私も心霊なんかは信じていない派ですけど、海外の警察には超能力捜査官なんかがいて、
実際に事件を解決したりもするらしいじゃないですか」
「あれ不思議だよなあ。ほんとなのかね?」
 そう言いながら、水野はなぜか上機嫌な様子で立ち上がった。半分ほど空いた水のボトルを
持って、賀子の脇を通り過ぎる。その間際、
「――ま、何でもいいがね。貞子だろうがジジイだろうが、片目潰れた変態だろうが。それは銀
山君の空想だし、空想は襲ってきやしない」
 独り言のようにそう云って、部屋を出て行った。ゆっくりと扉を開閉する音が室内に響く。
 不気味だ。彼もやはり、そろそろ疲れているのだろうか。
 そんなことを考えながら賀子はふと銀山を見、ぎょっとした。青年の顔色は極端に悪く、目を
見開いている。水野が閉めた扉を凝視しているのか。冷や汗の伝う頬に、見る見る間にもう一
筋。この短時間に、驚異的な発汗量である。
「銀山君?」
「あ」
 弾かれたように賀子を振り向き、数秒呼吸を止めるようにして、それからようやく、吐息ととも
に表情筋から力を抜く。
「ああ」
「ああ?」
「ごめん」
「え、いえ? ……あの、どうかしましたか」
「聞いた?」
 お前こそ私の話を聞いているのか、と言いかけて、飲み込んだ。雰囲気が少し異様だ。
 銀山がゆらりと立ち上がる。そのままよろけるように歩き出したが、すぐに扉に頭をぶつけ
た。
「ちょっと、銀山君」
「う……」
「ちょっと!」
 賀子は立ち上がり、銀山の胸倉を掴んで、青白い頬に平手打ちを見舞った。賀子はゴキブリ
も怪談話も平気だが、言葉の通じない人間は嫌いだ。
「どうしたんですか。しっかりして」
「いや、ごめん。少し疲れてるだけ」
「また見えるんですか? 聞こえる?」
「右目――いや、向かって右だから、左目だな。左目にナイフ、いや、小太刀? って言うの
か。何か、年代ものっぽい」
「銀山君」
 吐き気を堪えるように、銀山は喉を押さえた。灰色のシャツの首のあたりに汗が染みて、色
が濃くなっている。額に脂汗が浮いていた。
 見えるか聞こえるか、とにかく何か感じているのだろう。幻覚にせよ、賀子に関わりのない世
界に足を踏み入れているにせよ。少なくとも演技の類ではない。この汗はありえない。間違い
なく彼は今、彼にとっての事実を見ている。
 賀子は一応部屋の中を見回してみたが、もちろん何も見えはしない。妙な音も聞こえないし、
気配なども感じない。
「銀山君。大丈夫? いるんですか? どこ?」
「や、もう……もういない。って言うか多分、水野さんに、ついて、行った」
 付いて行ったのか、憑いて行ったのか。銀山の背中を撫でてやりながら、賀子は少し声を落
とした。
「そういうことは言わないんじゃなかったんですか」
「だって、あの人」
 言いかけて声を詰まらせる。そのまま少し浅い呼吸を繰り返して、はっ、と短く息を吐き出し
た。
「あのさ」
「はい?」
「あの」
 何か言いたげな顔をしているが、迷っているようだった。切羽詰まった目をしている。
 何度か口を開き、そのたびに閉じて、ようやく銀山は言葉を繋いだ。
「カコさんさ、正直に言って、幽霊とか信じてる?」
「全然」
「ありがと。じゃあ、俺の妄想だって前提で話していい?」
「どうぞ」
 銀山は身体を返し、扉に背中をつけると、開閉を封じるようにしてその場に座った。賀子も合
わせて、隣に座る。
 銀山はしばらく廊下の物音を窺うようにしていたが、気配がないことを確認したようで、ぽつり
と言った。
「あのさ。一昨日見たのって、男の幽霊なんだよ。スーツ着て血まみれで。年は多分、志度さん
くらい」
「ベタですね」
「そう、まあベタなんだけど。さっきまた見えた」
「怖いですね」
「怖ぇ。しかもそいつ、すげえ面してるんだよ。呪い殺してやるって感じで、片方しかねえ目ぇ引
ん剥いて、水野さんのこと見てる」
 まあ、相当恐ろしげな様相なのだろうということは判る。確かに夜中、そんなものが見えた
ら、逃げ出したくもなる気はした。
 銀山の冷たい手が、賀子の手首をぐっと掴んだ。
「そんで、片目に、何か。刃物がこう、刺さっ――ててさ。かなり深い感じで。そっから血がダラ
ダラ垂れてた」
「怖いですね」
「怖い。でももっと怖ぇのは、そいつ多分、水野さんが殺したんだ」
「殺した」
 言葉を繰り返して、賀子は少し背中を丸めた。そうしてできる限り優しい表情を作り、銀山の
顔を覗き込む。
「穏やかじゃありませんね」
 努めてゆっくりとした声で、そう宥めるように語る。銀山は、錯乱してると言うか、とにかく今、
まともではない。井上がここにいたら怒り狂っているだろう。
「そういうことは、あまり言うべきではないと思いますけど」
「判ってるよ。判ってっから、ずっと言わなかったんだけど。俺の妄想だもんな。でもさ。だけど。
あの人、さっき、言ったじゃん」
 ぽたり、と銀山の顎から汗の滴が落ちた。
「何をですか」
「片目の潰れた男、って。や、片目の潰れた変態、か」
 すうっと息を吸って、吐く音がして、銀山はようやく真っ直ぐに賀子を見た。恐怖と焦燥と困惑
とが、同じ割り合いで存在する視線だった。
「何であの人に、俺の妄想が見えてんの」
 さて――
 賀子はこめかみを押さえて、少し前の記憶を手繰った。彼が何を言っているのかは、おそらく
判っている。水野の、去り際の独り言だ。記憶を巻き戻して、その言葉をなるべく正確に拾い
上げる。
 ――ま、何でもいいがね。
 ――貞子だろうがジジイだろうが、片目潰れた変態だろうが。
 ――それは銀山君の空想だし、空想は襲ってきやしない。
「……ああ」
 言っている。確かに水野も、片目の潰れた――男かどうかは判らない口振りだったが、とに
かくそういう存在のことを口にしていた。
 さて、と、賀子は意識的に心を落ち着けて考える。発言のタイミングでは、確かに水野の方が
先だった。銀山の世界にしか存在しないはずの、片目のない幽霊のことを語った。
 普通に考えれば、銀山が水野の軽口に合わせて狂言を吹いている、ということになるだろう。
その行為の目的などはともかく。
 しかし――と、銀山の、あちこちが斑模様になったシャツを見る。演技でこれだけ発汗できる
ものだろうか。またどうにも賀子には、銀山が嘘を言っているようには見えなかった。幽霊など
存在するはずはないが、少なくとも彼の妄想には登場している。そのように思える。
 つまりは。
「……そうね。なんで水野さんが知っているんでしょうね」
 なぜ彼が銀山の妄想を覗けるのか。まさか水野も同じ幻覚を見たという訳ではあるまい。二
人の人間が、何の示し合わせもなく同じものを見たのなら、それはもう幻覚ではなく、本物の霊
感であり、幽霊だろう。
 集団催眠という言葉が頭をかすめたが、残念ながら賀子には、この現象がそれに当て嵌ま
るのかどうかを検証する知識はない。しかし、そう考えるしかないのではないか。
 どうしたものか。井上に話せば、また頭に血をのぼらせるだろう。水野には、質す前に考えを
纏めておきたい。そうなれば、相談相手は志度か奈津――
 彼らはもういない。
 賀子は頭を抱えた。初めて少し、涙が出そうだった。
「カコさん。カコさん、ごめん、こんな話して」
「……どうして私に話そうと思ったんですか」
「だって、変、だし。俺の頭の中身なんて、あの人に覗ける訳ねえのに。それで、もしかして、妄
想じゃなくて。ほんとに幽霊だとしたら」
「やめて。幽霊なんている訳ないでしょう。あなたの幻覚です」
「判ってるよ、だからただの戯言だよ。妄想だって言っただろ。その前提で聞いてよ」
「嫌」
「言うよ。もしあれが本当に幽霊だとしたら」
 賀子が耳を塞ぐより早く、銀山は言葉を吐き出した。
「水野さんはたぶん人殺しだ」
 努力して、賀子は思考の流れを一旦止めた。深呼吸する。銀山もそうしているようだった。
 しばらくして、妙に平淡な声で、銀山が言った。
「カコさん。幽霊は俺たちを拉致なんてしねえよ」
「ええ」
「襲ってもこねえ」
「そうですね」
「だから、幽霊がいるのかどうかなんて話、そういう意味じゃどうでもいいんだ。襲ってくるのは
人間だけなんだから」
「ええ」
 そう答えた瞬間、頭上に水を落とされたような寒気を感じて、賀子は天井を見上げた。
 誰もいない。何もない。当然だった。



16 水野栄介  終

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