渦中の人物は男部屋のテーブルについて、志度が置いて行った文庫本を読んでいた。
 その背中を見ながら、賀子は銀山の袖を引く。銀山はいやいやと首を振った。どちらも相手
に押し付けたいのだ。自分の口から、そんな馬鹿げたことを言い出したくはなかった。
 最初に声を発したのは、結局、水野栄介その人だった。
「どうしたね、お二人さん」
 書籍から顔を上げずにそう言った。
 賀子は手のひらに浮いた冷や汗を銀山のシャツで拭い、己を奮い立たせて声を掛ける。
「ちょっと、お時間よろしいですか」
「また寝ようかと思ってたところだ。暇すぎて、夢でも見てないとやっとれんでな」
「暇潰しにはなると思います」
「ま、とにかく座んなさいよ」
 その言葉に従って、賀子はテーブルまで歩み、少し考えてから正面の席に腰掛けた。隣に銀
山が座る。
 そこでようやく、水野は顔を上げた。
「どうした。改まって」
 賀子の目配せを受けて、銀山が緊張した面持ちで口を開く。
「あの。俺、見えるんすけど」
「ああ、幻覚だか幽霊だかな。またか」
「や。さっき、なんすけど。一昨日のと一緒で、それ、説明しようと思って」
 水野は多少うんざりとした顔で賀子を見た。なぜ改まってそんな寝言を聞かせるのかと、そう
言いたげな表情である。賀子は気付かない振りをして、銀山に話を続けさせた。
「水野さん、さっき、片目のない幽霊の話。したっすよね」
 瞬間、わずか、水野の目が真剣味を帯びたような気がした。テーブルの上に肘をつき、銀山
を睨み上げるようにする。
「さて、そんなこと言ったかね。それがどうした?」
「そ、それ、み、見えるんすけど」
「ほう」
 それは面白いなあと、半分ほんとうに面白がるように、半分は小馬鹿にするように、水野は
言った。
「二十歳くらいのお姉ちゃんだろう。おっぱいの張った美人」
「や、三十くらいの男だと思う。灰色のスーツで、胸の辺まで血まみれ」
 ぴくりと水野の肩が跳ねる。
「……三十男な。そんなら腕も片方ないはずだが、どっちの腕だね」
「や、腕は別に、両方なんともねえ……と思う。左目に、柄? の部分が何か、ちょっと凝った
感じの。このくらいの刃物が刺さってる」
 そこで水野は少し目を見開き、はっとしたように背後を振り向いた。当然そこには誰もいな
い。
 は、という、緊張を吐き出すような呼吸音を発して、水野は正面に向き直る。そうして、
「……参ったね」
 独り言のようにそう云って、鋭い目で銀山を見た。
「まさか、本当に見えるのか」
「え」
「どの辺にいる? ずっといるのか。もしかして腰に纏わりついてたりするのかね? だから痛
むのかあ」
「や、後ろに立ってるだけだから、腰はただの年……いや、すんません。ずっと見える訳じゃね
えけど、いつもいることはいるんじゃねえかな。今は見えねえ」
「ほう」
 水野はまたきょろきょろとあたりを見回して、首を傾げた。
「不思議なもんだ」
「もしかして、あの……見えるんすか、水野さんにも」
「いや」
 どこか愉快げな、探るような目をして銀山を見る。
「俺はオバケだの何のってのを信じたことはない。だが今は少し、そうだな。信じたね。心当た
りがあるよ、その片目なしの男。前にどっかのお寺さんもな、いるって言ってたんだが。お前さ
んがそれを知ってるはずはないしなあ。ほー」
 銀山は息を呑んで、水野の背後に視線を泳がせた。それから躊躇うようにしていたが、硬い
声で言った。
「そいつ、水野さんが殺したんすか?」
 水野はにやっと笑って顎を引き、銀山の目の奥まで睨むようにして、答えた。
「そんなことまで判るか」
 太く揺らぎのない、凄味に満ちた声だった。銀山が怯えるように身を引き、椅子が音を立て
る。
「なんだ、幽霊の声なんかも聞こえるのかね? 恨み晴らさでおくべきかー、とか言ってるの
か」
「や、何も喋ってねえ、けど……なんとなく」
 水野は埃でも落とすように、肩のあたりを払った。楽しげにしてはいるが、少し不愉快そうで
もある。
 そしてちらりと、水野の視線が賀子を舐めた。金縛りにでも遭ったように、身体が硬くなる。
「何で怯えるね、湯田さん」
「……いえ」
「ま、そうだね。その片目野郎を殺したのは俺だよ」
 さらりとした口調で言って、また不可解げな顔をする。
「すごく不思議だが。見えてるのか。まあ、そういうこともあるんだろうさ」
「随分あっさり納得されますね」
「や、別にあっさりって訳でもないし、納得したとも言いがたいんだが。そう思うしかない気がす
るな。俺は銀山君指摘の人物像に心当たりがある。俺はそれを銀山君に話したことなんてな
い。でも彼は言い当てた。なら、見えてるんだろうよ。こんな素人くさい兄ちゃんが、俺の古い話
を吹き込まれてどうこうってこともなさそうだし」
 不思議だがね、本当に不思議だなあと言って、水野はもう一度、背後を振り向いた。
 もちろん誰もいない。賀子には見えない。今は銀山にも見えていないようだったが。
「どうして」
 銀山が青褪めた顔をして、言葉を絞り出した。
「どうして、その……その人、殺」
「殺したかって?」
 水野は頬杖をつき、目をすがめた。感情のはっきりしない、裏のありそうな視線で銀山を見、
賀子を見て、少し笑う。
「どうでもいいだろ、そんなことは」
「ど、どうでもいいって、あんた」
「そんなことが君たちに何の関係があるね。片目幽霊と俺のことなんざ、この状況とは無関係
だ。俺のプライベートだよ」
 口を開閉させるが、言葉が出てこないらしい銀山に代わり、賀子が声を挟んだ。
「無関係。無関係なんですか」
「当たり前だろうさ。まああんたたちに関係することがあるとすれば、そうだなあ」
 ゆっくりと天井を見て、口角を持ち上げた。
「俺が凶悪な犯罪者で、無差別殺人が趣味のじいさんだったりした場合、あんたたちが危ない
ってことくらいだな」
 ぞ、と音を立てて、悪寒が背筋を駆け抜ける。銀山が賀子を庇うように、少し腕を広げた。表
情が強張っている。それを見て、水野は破顔一笑した。
「冗談」
「……冗談?」
「例え話だよ。確かに俺は、そう。人を殺したことがあるが、別に好きでやった訳じゃない」
 悪質な冗談である。賀子が睨むと、眉を下げて両手を挙げる仕草をした。
「すまんな。ちょっとビックリさせられたもんで、こっちもちょっとだけ脅かしてやろうと思ったんだ
が」
「やめてください」
「すまんすまん。や、でもまあ、本当に無関係だ。たまたま俺にそういう瑕疵があって、摩訶不
思議にも銀山君にそれが見えたっつう、それだけの話だ」
「そうでしょうか」
 賀子の返事に、水野は片眉を持ち上げた。
「どういうことだね」
「人を殺したことのある人間なんていうものは、けして多くないと思うんですが。少なくとも私は
多分、初めてお目にかかりました」
「母体を日本人全体にするんなら、まあ、そうだろうなあ。だがいるんだよ、そういう世界に足を
突っ込まざるを得なくなる人間は。合理と条理だけで世界ができてる訳じゃない」
「それは、今はどうでもいいんですが」
「言うねえ」
「私がはっきりさせたいのは現状の話です。つまり――日本人を全国から七人選んで、その中
にたまたま殺人犯がいる可能性というのは、どんなものでしょうか」
 水野は答えず、ただ顎を撫でて笑った。そんなことはとうに考えていた、という表情である。ま
あ、そうだろう。彼が殺人に至った事情などは判らないが、とにかくそうした異常な経験がある
以上、再び異常な状況に陥れば、まずそのことを想起するのではないだろうか。想像するしか
ないが、賀子ならそうだろう。
「水野さん、どう思われますか?」
「んー。まあ多分、奈津ちゃんと同じで、俺も強い意志で選ばれたんだろうな。銀山君が俺の瑕
疵を見ることまで――考えてた訳はないと思うが。でももしそうなら、凄いな。つうか、頭おかし
いんじゃないか」
「何が『普通のじいさん』ですか」
「ちょっと人を殺したことがあるだけの普通のジジイだよ。映画みたいに脱獄もできんし、罠も
見破れない。無差別殺人鬼でもない。理由がなければそんなことせんよ」
「その理由とは?」
「だから、あんたたちには関係ない」
「なくないですよ。私たちが知らずにその理由に抵触したら、殺されるんでしょう」
 ち、と水野は舌打ちした。例によって別に、気分を害したようではない。どちらかといえば面白
がるような顔をしている。
「湯田さんの話し方はいちいち合理的だな。まあ確かに俺は人殺しだが、動機は正当防衛だっ
たよ。そうホイホイとは殺さない。こんなとこでいいか」
「了解しました」
「信用したか?」
「まさか」
 銀山がやめろという顔をしているが、見ないことにする。
「あなたには情報のアドバンテージがあった」
「そうか?」
「少なくとも、あなたも奈津さんと一緒で、恣意ではなく故意で選ばれたという可能性が高いです
よね。あなたはそれを判っておられたんでしょう。なのに、黙っておられましたね」
「言う必要がないと思った。俺と奈津ちゃんと――まあ他の連中もそうかも知らんが。それが偶
然でなくて、故意で選ばれたからって、状況は何も変わらんだろ」
「そうでしょうか」
「そうだ。言ったところでビビらせるだけだろ。まあ、特に井上さんに知られたくないってのもあ
ったんだがね。弁護士先生だろ」
「裁かれていないんですか? 逃亡中?」
「いや、きっちり無罪もらったよ。替え玉がな」
「水野さん――」
「俺が言えるのは」
 しっかりと芯の通った声で、水野は賀子の言葉を遮った。
「俺は有益なヒントなんて、なんも呈示できないってことだ。犯人は知らん、目的も知らん。心当
たりもない。ただ」
 人を殺しちまったことがあるだけだ、と言って、再び本に目を落とした。
 賀子も銀山も、何も言えなかった。判っていたからだ。水野はもうこれ以上、何も言わないに
違いなかった。
 口を噤んで、賀子は片目の幽霊のことを考える。まあ、いるのかも知れない。いや、水野の
話を信じるのであれば、おそらくいるのだろう。だが賀子にとって、それ自体は、ほとんどどうで
もいい話だった。
 幽霊は賀子には見えないし、襲っても来ない。ならばそれは、賀子にはまったく関わりのない
存在であるし、いようがいまいが、どちらでもいい。
 生きている人間だけが重要だ。
 幽霊は襲って来ない。襲って来るのは人間なのだ。



17 少なくともそれはかつて実在していた  終

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