短くなった煙草をぎりっと携帯灰皿の中で揉み潰して、井上春先は歯噛みした。
 指先に込める苛立ちの原因は、目の前にいる女がもたらした、ろくでもない、しかし筋道立て
て語られた世迷い言だ。金銭が絡んでいる時はとてつもなく、絡んでいない時はわりと、いずれ
にせよ人よりは回転の速い頭脳が、今しがた聞いた話を分解する。
 幽霊云々はどうでもいい、論じる価値さえないものだ。そんなものは存在しないし、つまり手
の込んだ銀山のうわごとに、水野が乗ったか乗せられたかしたと、要はそういうことだろう。そ
れに至るロジックの種は不明だが、今は結果だけ判っていればそれでいい。
 問題は、水野栄介が殺人の過去を自白したという、その一点に限られる。真実であるならば
その詳細を。虚偽であるならばその意図を、追求しなければならない。
「ならない、ですか」
 ガラス扉に凭れた湯田賀子が、懐疑のニュアンスを込めてそう呟いた。井上は顔を上げる。
「声に出ていたかね」
「ぼそぼそと。……水野さんご自身が仰いましたが、別に追求することでもない気がしません
か?」
「何を言うんだ。嘘でないなら人殺しだぞ」
「だからといって別に、襲い掛かってくると決まった訳ではないですし。銀山君の霊感と同じです
よ。事実でも嘘でも勘違いでも、何だって構わないんじゃないですか。要点は、それがどう我々
に影響するかということでしょ」
「それを把握するための事実追及は必要だろうが」
「水野さんはもう話さないと思いますよ。最悪、薮蛇になるんじゃないですか」
 この年の女というのは、果たしてこういう生き物だっただろうか、と井上は考える。少なくとも
井上の娘は違う。これほど――何と言うか、醒めてはいない。
 悪い人間ではないのだろう、という気はしている。口で言うほど湯田を疑っている訳ではな
い。しかしどうにも、いちいち気になるのだ。傍観している風な態度が気に食わないのかも知れ
ない。命が掛かっているのだ、取り乱せとは言わないが、これほど落ち着いていることもないと
思う。もう少し慌てるなり、焦るなりしてもいいのではないだろうか。
 井上は、生命の価値を把握できない人間が嫌いだ。つまらない衝動や欲望で人を傷付ける
者、殺す者。仕事柄、そういう人間と知り合うことがままある。そういった時は、縊り殺してやろ
うという衝動を抑えることに必死になる。正義感だの職業的信念だのいうことではなく、とにかく
嫌いなのだ。そういう、屑のような人間が。己の命を重んじられない者も嫌いだ。そういう人間
は往々にして、他人の命の重量も見誤る。
 湯田賀子という女からは、どうも、そういう雰囲気を感じるのだ。生きることや死ぬことに、さし
て興味を感じていないのではないかと――そういう気がする。それほど多く言葉を交わした訳
でもなし、印象に過ぎないことではあるのだが。
 軽薄ではない、浅薄でもないのだろうが、希薄なのではないかという気がする。それは意外
と、平凡な人生を歩んできた者に多い。紛争も飢餓もない国で、痛みも苦しみもなく生きれば、
人間は鈍磨する。
「湯田さんは、水野さんをどう思うね。人を殺したと自称する人間を」
「どうと仰られても。正当防衛だと主張しておられましたし、それを信じるならまあ、そういうこと
もあるんだろうな、と」
「殺人犯というのは、殺人犯になった瞬間から、普通の人間とは別の生き物になると思わんか
ね。私の自論なんだが」
 湯田は少し、鼻白んだ顔をした。
「ご職業のわりに差別的なことを仰いますね。正当防衛でも? 過失でもですか? 赤信号を
無視して飛び出してきた歩行者をはねても?」
「そう。刑法の話をしているんじゃないよ。もっと――そうだな、即物的な話だ。一度もしたこと
がないのと、一度したのとでは、それに対する心持ちが変わってくると思うんだが」
「一度してしまったからこそ、より重く捉えるというのもあると思いますが」
「そうだな。だがそれもやはり、普通の人間とは違う心持ちとは言えないかね? 善し悪しの話
をしているんじゃない」
「心持ちが変わると、別の生き物になるんですか」
「私はそう思っている。我々の預かり知らぬ心持ちを持つ生き物になるのだと」
 こんな話はそうそう他人にはしない。湯田の言う通り、差別と言うならそうなるのだろうし、こ
れまた湯田の言う通り、それは弁護士に相応しい価値観ではないのだろう。
 しかし井上は、司法を志した学生の時分から、ずっとそのような考えを持っていた。そう、別
に善し悪しの話ではないのだ。殺人という、普通の人間ならばまず通過することのない一大事
は、その後の人生観にも影響を及ぼすだろうという、それだけの話だ。それを自分なりに解釈
しているだけのことである。
 水野の告白をごく軽く捉えているらしい湯田が、この考えにどう答えるのかが気になった。
「文系の方らしい仰りようですね」
 そう呟いて視線を落とした湯田は、なるほど、履歴はどうあれ、思考構造は理系と思わしい。
合理的かつストレートで、言葉にあまり襞がない。
「私はそもそも、普通の人間という言葉を信用しかねますが」
「ほう。それはどういう?」
「人を殺そうが殺すまいが、ぼんやりした人間はぼんやりしているでしょうし、神経質な人間は
神経質でしょう。虫を殺すのも人を殺すのも、大して違いはないと思う人間だって、中にはいる
と思います。そういう人間が、殺人という出来事をターニングポイントにして、どこかに分岐する
とは……限らないと思いますね」
「ああ」
 一大事たりえない、ということか。たいへん胸糞の悪くなる論旨だが、それも事実の一面では
ある。
「しかしそういう人間は、元より別の生き物だと私は思うが。例外的なものであって」
「だから、その定義が曖昧だと思うんですよね。別か別じゃないかなんて、個人の価値観で変
わるでしょ。それを押し付けるのは、まさに差別だと思いますね、私は」
 井上は頷くしかなかった。全面的に彼女は客観的であり、正しい。自分が間違っているとも思
わないが。
 おそらく湯田は井上と違い、平行線の世界に生きているのだろう。噛み砕いて言えば、視線
がフラットだ。先も奥も中も見ず、目の前に現れたものだけを重視するのだろう。だから、先や
奥を見て推測せねばならない――目の前に何も現れない、今のような状況では、停滞している
ように見えるのかも知れない。まあこれも、井上が勝手に中を想像しただけのことだが。
 井上のこういう、人間観察という趣味も、彼女には理解されない気がする。
「面白いな。よくその年で、そう客観的に喋る」
「客観だけで主観がないとはよく言われますね。打てば響くけど、自分じゃ音を発せないとか」
「文学的な表現だな。言い得て妙だ」
「別れ話の最中に言われましたよ」
「君を袖にするなんてまあ、大した男だな。今は恋人は?」
 湯田は苦笑して、小さく手を振った。
「しばらく独りですね。何ですか」
「いや。君にちょくちょく電話なんぞさせてもらっても迷惑じゃないだろうか、と思ってね」
「奥さんもお子さんもおられるんでしょうに」
「そういう下心じゃないよ。これを縁に友人付き合いなんぞできたらいいなと。君は面白い、
色々なことを話してみたいものだよ」
「それは光栄ですが」
「携帯の番号を聞いても?」
「今は判らないですよ、自分には掛けないから。本体で調べないと。盗まれたなら機種変更しな
いといけませんね」
「そうだな。そのためには帰らないと」
 少し不思議そうな顔をしてから、湯田は小さく笑った。
「ええ。銀山君にも教える約束をしていますし、志度さんには番号をもらっていますから、掛けな
いと」
「……意外と尻が軽いのか、君は」
「それはセクハラですね。友人付き合いでしょう? 井上さんにも聞かれるとは思っていません
でしたよ」
 そう言って笑う表情は、年相応に可愛らしく見えた。



18 井上春先  終

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