細く白い、しなやかな首に、黒い手袋を嵌めた指先が迫っている。
 縊り殺すのだろう、と直感的に思った。じりじりと息を潜めるように手を伸ばしている。
 カメラワークは曖昧だ。その暴漢――だろう、きっと――の視点なのかも知れないし、それを
間近で眺めている傍観者の視点のようにも思える。いずれにせよ、黒い手の持ち主の顔は見
えなかった。
 夢を見ていると気付いたとき独特の伸びやかな思考で、銀山純はそんなことを考えていた。
頭は半分だけ醒めている。だから登場人物の顔が見えずとも、その白い首は旭奈津のものな
のであろうと思っていたし、黒い手は志度亮介のそれだと思っていた。横になってから眠りにつ
くまでしばらく、そういった情景を想像していたからだ。
 と、突然、ぐっとカメラが移動した。今にも首に触れそうな指先を映していたのが、手袋を嵌
めている腕から肘、褪せた色のシャツを羽織る肩へ。陽に焼けて浅黒い首を舐め、冷えた表
情を浮かべる男の顔を映したところで、視点が正面に固定される。
 おいおい、やめてくれ、と呟きたかったが声にならない。男のその、爬虫類のように感情の窺
えない目が、自分を睨んでいるように錯覚する。今まで気付かなかったが、彼の瞳の色素は少
し薄い。それが更に無感情的で、不気味だった。外国人の血でも入っているのか、あるいは髪
と同じで、年を取るにつれ色が抜けてきたのか。
 そう、その視線にあてられてしまい、疑問を抱くことも忘れてしまった。男が志度亮介ではなく
水野栄介だったこと。自分がそれを別段意外に思っているわけではない、ということに。



 窓から月明かりが差し込んでいた。それを浴びるようにして水野が外を眺めている、その姿
を、映画じみていると感じた。それほど、絵になっている。
 ふ、とこちらを振り向く様も、そうだった。なぜ目を醒ましたことに気付いたのだろうか。物音も
立てていなければ、身動きもしていなかったというのに。
「よう。起きたか」
 まだ夢が色濃く頭を漂っている。現実でも目の色が薄いのかどうかということを、なぜか無性
に確認したかったのだが、部屋が薄暗いためによく見えない。
 そこで銀山は、まだ自分は寝惚けているのだろうか、と疑問を抱いた。眉間を揉みながらダ
ンボールを這い出る。
「……水野さん」
「うん?」
「電気。どうしたんすか」
 ここに来てから絶え間なく全館に煌煌と灯り、点灯スイッチ等も見付からなかった明かりが落
ちている。
 水野は芝居じみた仕草で肩をすくめた。
「二階三階、急に全部消えた。二時間くらい前かね。一階は点いてるんだが」
「やばくないっすか」
「さあな。電気が尽きたか、系統部分が故障でもしたか。一応あちこち見回ってみたが、他に
異常ってえ異常はなかったな」
「そうすか」
 ちらりと腕時計を見れば、午後の四時過ぎだった。六時間ほども寝ていたことになる。この異
常な状況に、早くも慣れてきてしまったのだろうか。
「井上さんは?」
「俺と同じ部屋にいたくないらしい。一階の部屋にいる」
「ああ……」
 わりあいあからさまな人である。銀山も、それは嫌に決まっているが、そう言い出す方が怖く
て、こうしてそのままの部屋を使っている。
 この老人の素性がどうあれ、この建物に篭城する以上、うまく付き合って行くしかないのだ。
それが嫌ならばそれこそ、志度や奈津のように出て行かなければならない。
 おもねるという訳ではないが、敵対してもいいことがあるとは思えない。銀山は言葉も荒いし
粗野な態度も取るが、本質的には保守的だ。というよりも、敵意の研ぎ方が判らないのだ。ぬく
ぬくと生きてきたためだろうと自分で思う。だから志度のアクティブさや、賀子の無関心さ、井上
の頑なさが少し羨ましい。水野などに至ってはもう別の世界の生き物だ。
 グロテスクな幻覚のビジョンを思い出して、また気分が悪くなる。幻覚だと思えばこそまだ我
慢できたが、もう、かなり高い確率で、あれは本物の幽霊なのだ。そう呼ぶのが正確かどうか
は判らないが、少なくとも、そう考えておいても問題はないものだと思う。
 銀山はそういうものを肯定する方ではないが、否定もできないと考えてきた。人間が把握しき
れないことなど、山のようにあるし、それはそうそう減るものではないだろう。あってもおかしくは
ない。死者の怨念が、形になって現れるようなことも。
 そう考えておいた方が楽だ。あれは種も仕掛けもない幽霊なのだ。自分を殺した水野に取り
憑いている。一度そう信じてしまえば、まったくシンプルな話だった。もちろん、全面的な心霊肯
定派に宗旨替えしたというわけでもないのだが。
「顔色が悪いなあ」
 のんびりと言った水野が、観察するように銀山を見下ろしてくる。暗さに目が慣れてきてよう
やく、水野の瞳の色が判った。やはり薄い。ウォーターグレイというのか、青というほど青いわ
けでもないが、他に形容も難しい色だ。
 不思議なものだな、と思う。今まで気付かなかったのに、夢には出てきたのだ。意識していな
かっただけで、確実に頭の中にはあったということか。
 そういえば人間は、「知らない人間」を夢に登場させることはないのだという。覚えていなくと
も、確実にどこかで見た顔だけが出てくるのだ。なんとなく判る話ではある。知らないものをイメ
ージする、ということは難しい。
 ならば自分の幻覚は、やはり幻覚に他ならないのかも知れない。水野にも言われたが、そ
う、銀山の見るものはベタなのだ。恨めしそうな女、血まみれの男、さめざめと泣いている老
人。幽霊と言われて、大抵の人間が思い浮かべるであろう映像、そんなものばかり見る。
 ――堂々巡りだが。事実は判らない。だが少なくとも、水野の背後に見えたあの片目の男だ
けは、本当に幽霊なのだろう。そう思うことにした。
「水野さんは寝たんすか」
「少しな。だが夢見が悪くてすぐ起きたよ。お前さんもうなされてたが、幽霊でも出てきたか」
「っていうか、こんなとこで寝てたら、そりゃうなされるんじゃないっすか。身体痛いし枕もねえ
し」
 適当に話を逸らして立ち上がる。まさか、あんたが奈津の首を絞める夢を見ていたのだとは
言えない。
「ちょっと出てきます。一階は明るいんすか」
「ああ。一緒に行くか」
「大丈夫っす」
 悟られない程度の早足で部屋を出て、ドアを閉める。
 水野の言う通り、廊下の明かりも全部落ちていた。窓から多少月明かりが差し込んでいるた
め、足元くらいは見えるが、やはり暗闇は不気味だった。
 やはり水野に一緒に来てもらえばよかった、とさえ思った。彼から離れるために出てきたとい
うのに。
 意地で恐怖を押し殺して、あえてゆっくりと歩く。ここで今、何か見えでもしたら、気絶するかも
知れない――などということを考えた。銀山は元々、ホラー映画も怪談話も苦手な方だ。見え
るからといって強いわけではない、むしろ、見えるかもと思うからこそ余計に怖い。別に危害を
与えられるわけではないが、祓えるわけでもないのだし。
 自分の足音がやけに大きく反響して聞こえる。ふと賀子が訴えていた、謎の足音の話を思い
出した。銀山の幻視と同じように、彼女の幻聴だったのだろうか。絶対にそうではないと言って
いたが、言い張るからこそ怪しいのだ。自分の「症状」について必死になって調べた時期のあ
る銀山は、そのことを知っている。別に賀子が嘘をついているとは思っていない。事実ではな
いということに、当人が気付いていないだけだ。
 そう、特に賀子は、その手のタイプであってもおかしくないように思える。彼女は自称している
通り、見かけほど冷静ではない。発する意見は合理的だが、よくよく聞いてみると、適当なこと
を言っている時もある。要するに普通の女だ。この状況に怯えて疲れて、幻聴のひとつくらい
聞いても、別に何もおかしいことはない。
 そう、銀山は本当のところ、足音の件に関してほとんどそう結論を出していたのだが、誰にも
言わないことにしていた。賀子が銀山の見立て通りのタイプであれば、指摘するとムキになる。
彼女との間にまで亀裂を作ってもいいことはあるまい。
 目を凝らしながら慎重に階段を下りると、水野の言う通り、明るい世界が広がっていた。ほっ
と息をつく。やはり安心するものだ。人間、どれだけ文化的に洗練されようとも、原始的な恐怖
からは逃れられないのだろう。
 井上のいる部屋はどこだろうか。寝ていたら起こすのも悪いが、一人でいるのは怖い。とりあ
えず端のドアからノックして行って、どんどん中を覗いてみることにした。
 最初の部屋には誰もいなかった。がらんとした広い部屋に、テーブルと椅子が数脚。窓から
太陽が差し込まない時間に見ると、より無機質で不気味な内装だ。続く数部屋も同じだった。
 四番目の部屋のドアを開けた時、銀山はふと違和感を覚えた。
 他の部屋と同じように誰もいない。広さも、内装も似たようなものなのだが、何か――強烈に
変な気がしたのだ。
 たとえば、課題を机の上に忘れて玄関を出た時のような、身体がささやかな不安を訴える感
覚。
 何か忘れている気がする、ということまでは判るのだが、意識には上がって来ず、電車に乗
ったあたりで「徹夜したのに」と嘆くことになる、あの現象だ。その時に感じる落ち着かなさと似
ている。
 身体は確実に異常を捉え、気付けよというシグナルを発している。だが意識が原因まで届か
ない。何か忘れている気がする、と考えてはみても、結局いつも机の上のルーズリーフには思
い至らないのだ。
 何だろうか? 扉を全開にして押さえ、完全に立ち止まって、銀山は考えた。ぐるりと室内を
見渡す。特に妙なところはない、と思う。他の部屋と構成要素は同じだ。白い壁と床に天井、シ
ンプルな白天板のテーブルに、錆ひとつ浮いていないパイプ椅子。
 扉には錠がついていた。他のいくつかの部屋と同じく、摘んで捻れば施錠されるという簡単な
ものだ。これにも異常はない。
 最後に、なるべく目をやらないようにしていた窓を見た。銀山は自宅の窓には、夜になると必
ずカーテンを掛けるようにしている。電源を落としたテレビの画面、深夜のバスルームの鏡、そ
れらに次いで妙なものが映る媒体だからだ。
 果たして、その手のものは映っていなかった。ほっと一息ついたところで、
「おい」
 唐突に背後から声を掛けられ、「ぎゃっ」と悲鳴をあげてしまった。
 全身から冷や汗を噴き出しながら振り向き、そこで一気に弛緩する。水野が腰に手をあてて
立っていた。
「お、驚かさねえでくれよ」
「お前さんが勝手に驚いたんだ。この部屋で何してる?」
 笑顔を作ってはいるが、目が笑っていないということに気付く。その様子にふと、今まで感じて
いた違和のヒントがあるような気がして、銀山は咄嗟に頭を巡らせた。
「水野さんはどうしたんすか。俺に用?」
 すっ呆けた返事をしながら、さりげなく様子をうかがう。水野は笑顔なのか何なのかよく判ら
ぬ表情のまま、「別に」と急くように言った。
「俺は便所に出ようと思って降りてきただけだ。それよりこの部屋で何を?」
 この部屋で銀山が立ち止まっていたことにこだわっている、ような気がする。だから銀山は敢
えて話を逸らした。
「全然気付かなくてびっくりしましたよ。急にいるんすもん。足音とか聞こえなかったなあ」
「お前さんがボーッとしてたんだろ。何をそこまで――気にしていた?」
 その言い方で、とぼけるのは不可能だということを察する。水野は隠すつもりがない。この部
屋で立ち止まった銀山を警戒している、ということを。つまりは、やはりこの部屋には何かあ
る、それを水野は知っている、ということをだ。
 自分が下手な嘘などついても、すぐ見破られるだろう。怪しまれるのは得策ではない。話を逸
らせるのはここまでだった。
「別に何もないんすけど。何かちょっと、気になったんで」
「何がだ?」
「判らないんすよ。ただドア開けてすぐ、何か変な感じだなって思って。でも何が変なのかが判
んないんで、気になって立ってたんです」
「お得意の霊感か?」
「あー。そうかも。たまにあるから」
 水野はふうんと無感動に言って、部屋の中に視線をやった。納得したのかどうかは判らない
が、それが事実だ。
 それで銀山は話を終えたことにして、さっさと水野の脇をすり抜ける。幸い、呼び止められる
ことはなかった。次の部屋のドアを高速でノックして、飛び込むように中に入る。急いで錠を下
ろし、ほっと息をついた。井上はいないが、水野もいないのでそれでよしとする。
 隣の部屋は結局、何だったのだろうか。何かあるのだとは思う。水野の警戒振りを思い返し
て、銀山は震えた。下手な切り返しをしていれば、何をされていたか判らなかったという気がす
る。先入観による被害妄想も入っているとは思うが、それでも、先程のやり取りはきな臭かっ
た。
 調べに行きたいが、まだ水野は外にいるのだろう。興味を持っているということを知られては
いけない。そんな気がした。
 あとで誰かに相談してみようか、と考える。井上か賀子。まともに取り合ってくれるのは賀子
だろうが、彼女をこれ以上不安にさせてもまずい気がした。足音の一件がある。
 ならば井上なのだが、彼は良くて話半分で聞くだろう。「なんとなく部屋に違和感があった」だ
の「水野が変だったような気がした」だの、そういう曖昧な話を真に受ける男ではない。それは
もう、よく判っていた。論理的に説明できれば味方になってくれそうな気もするが、それが難し
いのだ。
 といって諦められはしない。何か、これは、とても大事なことだという気がした。霊感や虫の知
らせという胡散くさいものではない。もっとずっと現実に根差した、触感のようなものだ。隣の部
屋は何かが変だったし、水野の様子もそうだった。
 誰かに判って欲しい、と切実に思った。自分も同じように思う、と言って欲しい。自分がおかし
い訳ではないと保証して欲しい。
 志度にもう少し、色々話しておくべきだったのかも知れない。ごくまともそうで、頼りになりそう
だったあの大人の男は、今どうしているだろうか。彼は賢い選択をしたのかも知れない。少なく
とも水野から離れた。
「ああ」
 呟いて頭を抱える。時間を置いて下手に冷静になった分、色々なことが怖くて仕方がない。
 あれやこれや、考えを巡らせながらふと窓に目をやれば、血まみれの中年女がうっすらと微
笑んでいる。それが少しあの、因幡和枝に似ているように見えて、銀山は絶叫しながらその場
に屈み込んだ。



19 銀山純  終

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