男の絶叫で目を醒まし、井上春先はダンボールの中から這い出た。眼鏡をかけて上着を羽
織り、ふらふらとドアを開錠して、廊下に出る。
 すぐ隣の部屋の前に水野が立ち、しきりにドアを叩いていた。大声で中に呼びかけている。
「銀山君? どうしたね? 平気か?」
「水野さん」
 上着にきちんと袖を通しながら、硬い表情の水野に声を掛ける。
「どうしました。大丈夫ですか」
「ああ、あんた隣にいたのか。銀山君が中から鍵を掛けてる。何があったかは判らん」
「今の悲鳴は彼?」
「そうだよ。ああ、ちょっとあんた、外に回って窓から様子見てくれんか」
「面倒ですが、まあ判りました。湯田さんはどうしてます?」
「上で寝てるんじゃないのか。とにかく銀山君を」
 急かされて、仕方なく駆け足で玄関口へと向かう。
 辿り着き、ガラス扉へ手を掛けたところで、「井上さん、開いた開いた!」という水野の声が聞
こえてきた。
 やれやれ、と踵を返して部屋に戻ると、水野がぐったりとした銀山を抱きかかえていた。床に
吐瀉物がぶちまけられている。
「水野さん」
「ああ、ちょっとやばいかも知れん。あんたのいた部屋に運ぼう。手伝ってくれ」
「はい。大丈夫か、銀山君」
 青年は汚れた口元を手の甲で拭いながら、すんません、と小さな声で言った。顔色が青に近
いほど白く、こう言っては何だが少し不気味だ。
 肩を貸して、水野と二人で部屋に運ぶ。椅子に腰掛けさせて、井上が上着を掛けてやると、
「廊下、掃除しないと」と呻いた。
「そんなの俺がやっておいてやるから、ちょっと落ち着け。水も持ってきてやるから。井上さん、
兄ちゃんのこと頼む」
「あ、水ならそこに私の分がありますが」
「いや、そのあたりは最初に配分してるんだから、きっちりしておいた方がいい。彼の分を持っ
てくるよ」
 きっぱりと言って、水野は部屋を出て行った。かつかつと足音が遠ざかっていく。年のわりに
早足だ。
 背を丸めて苦しそうにする銀山は、水野の足音が聞こえなくなってから、ゆっくりと口を開い
た。
「井上さん、ちょっと聞いてもらえますか」
「何だね」
 隣の椅子に腰掛けて、話を聞くポーズを作る。銀山は眉間に皺を寄せて語り出した。
「色々――色々思うことあるんすけど。とりあえずあの、水野さんは、変です。おかしいっすよ」
「そんなことは判っているよ。幽霊云々は置いておいても、とにかく人を殺したと自称したんだろ
うが」
「そういう話とも違って――何て言うかあの人、ちょっとずつ、変になってる感じがするんすよ。
誰だってそりゃ、こんなことになったら、普通じゃいられないだろうけど」
「どういうことだね」
「俺がさっき、部屋から出た時に、水野さんが一旦支えてくれたんすけど」
 銀山は少し考えるようにしてから、噛み締めるように言った。
「たぶん一回、わざと落とした」
「わざと? よく判らないな。落としたというと」
「俺こうやって、水野さんの肩に寄り掛かっちまったんすけど、あの人、一度ちゃんと抱きとめて
くれたんすよ。なのに次の瞬間、ぱっと手離して、俺の身体落とした。倒れたところにあの人の
膝があって、それが腹に食い込んじまって――」
「ああ、吐いてしまったと」
 銀山は頷いて、水野の膝が入ったらしい脇腹を押さえた。
 さて――井上は眼鏡を押し上げながら考える。この証言をどう取るべきか。
 この青年に情緒不安定の気があるのは判っていたが、さりとて老人の方がまともという訳で
もない。銀山の被害妄想だという気はするのだが――この若者が凭れ掛かってきたら、それ
は受け止め損ねることもあるだろう。まして老人だ――、現場を目撃していない以上、決め付
けるわけにも行かない。
 寄り掛かってきた人間を受け止め損ねた時、相手の脇腹に食い込むような位置で膝を立て
ていることがあるか? あるだろう。体勢を崩した相手を支えるために、合わせて自分の身体
を低くしただけだ。
 事故と考えて無理のない状況ではある。ただそれは別段、故意を否定する材料にはならな
い。
 ――問題は動機か。
「何か君は、あの人にそういうことをされるような覚えがあったのか? それとも理由のない蛮
行だと? だからさっき言っていたように、あの人が変になったと感じるのか」
 後者なら相手にするまい、と考えながら喋る。銀山は深刻な顔をして、首を横に振った。
「覚えがないわけじゃないっす。ただ多分、いま井上さんに言っても、うまく伝わらないと思いま
す」
「それでは君の証言は信用しかねる、としか言えないが」
「それでもいいっす。ただ、あの人には気を付けた方がいいと思って」
「言われなくともそうしているよ」
「あとあの、実は」
 言いにくそうにしながら、声を潜めた。
「頼みたいことがあるんすよ。いつでもいいんで、できたら、あの人の気ィ引いてもらえません
か。二十分くらい」
「どういうことだね」
「絶対にあの人の目が届かないところで、したいことがあるんです。今度怪しまれたら膝じゃ済
まないと思う。あれ多分、牽制だったんすよ」
「よく判らんが、人目のない状況でしたいことがあるわけだな。それはつまり、私の目も届かな
いということになるが。そんな怪しげな行動には協力できかねる」
「ああ――それは、そうなんすけど。じゃあカコさんに水野さん引き止めてもらって、井上さんに
こっち付き合ってもらうとか。や、それだとカコさん危ねえな」
 ごちゃごちゃ言いながら銀山は頭を抱える。この青年にも気を付けた方が良かろうなと、冷え
た目で観察しながら井上は考えた。これが被害妄想だとすると、かなり重度のところまで来て
いる。もっとも、殺人犯などと自称する男が相手なのだから、多少バイアスが掛かるのは仕方
ないことだとは思うが。
 しばらくして、足音とともに水野が戻ってきた。半ばほどまで中身の減った水のペットボトル
に、畳んだダンボール箱も持っている。それで汚物を処理するつもりなのだろう。
「水を使うんですか?」
「いや、無駄にはできんだろ。ダンボールだけで何とかしてみるよ。ほら兄ちゃん、水。ちゃんと
飲んでおけ」
 どん、と目の前に置かれたボトルに、銀山がびくっとする。水野はそんな青年の様子を気に
する風もなく、さっさと廊下へ出て行った。
 静かにドアが閉まってから、井上は銀山を睨み付ける。
「おい。何を怯えているのか判らないが、礼くらいは言ったらどうなんだね。子供じゃあるまい
し」
「だって」
「そういえばそもそも、さっきの悲鳴は何だったんだ。あれも水野さん関係か?」
「あれはその、ちょっと寝惚けてただけっす。夢見が悪くてびっくりして」
 またか、とうんざりした気分になる。井上はこういう、訳の判らないことを繰り返す人間を見て
いると苛々してくるのだ。理性的でない人間は獣よりも性質が悪い。
 溜め息を吐き出した井上に、銀山は居心地悪げな顔をする。
「すんません。うまく説明できればいいんすけど、そういうの苦手で。でも本当にやばい気がす
るから、相談しておきたかったんす」
「そうか。よく判った」
「真面目に聞いてください」
 情けない声で言って、深刻な目をした。
「さっきも言いましたけど、水野さん、ちょっとずつ何て言うか、野蛮になってる気がします。本
性を隠す気がなくなったみたいな感じっていうか。人殺したって言い出した時も、すげえ嫌な感
じだった。俺とカコさん脅かすみたいな」
「あの人も疲れてきているんじゃないのか。幽霊が憑いているだのと言われれば、そりゃ嫌気
も差すだろうよ。心当たりがあったんなら尚更だろう。偶然に過ぎないにせよ、過去の犯罪など
示唆されたらいい気分はしないだろうし」
「でも、変わり始めたタイミングが怖くて」
 言わんとすることを何となく察して、井上は相槌を打った。
「二人、というか、志度君が出て行ってから、ということかね」
「そう。そうなんすよ。一番馬力ありそうだったあの人がいなくなってから、少しずつ変わり始め
たみたいな気がして。それが怖い。俺たち相手なら、やり合っても平気、みたいに思ってんの
かなって」
 井上など、体格のいい若い男がいなくなったということに安心している部分もあったのだが、
彼にしてみれば心細さが勝るらしい。それは同時に、水野という人間に対する警戒度の違いで
もあるが。
 胸ポケットの煙草に手を伸ばしかけ、もう残りがいくらもないことを思い出す。もう一度溜め息
を吐いた。
「つまり君の考えとしては、水野さんは我々に危害を与えようとしている、ということかね。この
状況をお膳立てした側の人間であるということか?」
「それは判んねえっすけど、危害を与えてくる可能性は、だから、ありそうに思ってますよ。厳密
に言えば、俺はもう与えられた――のかも知んねえし」
 与えられた、と断定しないだけまだマシか。まだその程度の客観性は持っているようだった。
 今の時点で井上は、銀山の身元をほぼ信用していた。この被害妄想的な怯えようは演技で
はあるまい。本気で水野を恐れ、疑っているのだ。井上のことは信用している、ということも判
る。でなければこんな打ち明け話はしないだろう。
 この青年は井上と同じく、また湯田賀子もおそらくはそうであるように、純然たる被害者だ。
何も知らずこの異常事態に放り込まれた。
 水野栄介の「幽霊」の件が懸念事項ではあったのだが、それはもう気にしないことに決めて
いた。銀山が画策側の人間であり、水野の犯罪歴をあらかじめ把握した上で、幽霊がいるなど
という嘘をついて何らかのプレッシャーを掛けた――解としてはある意味とてもすっきりする
が、この青年はそんな玉ではない。
 そう、銀山純の身元は信用している。ただし、証言は大変に疑わしい。解釈が故意に拠り過
ぎている、という気がする。嘘をついているというわけではないのだろう。自分では事実だと思
い込んでいるのだ。
 銀山自身が湯田賀子に対してほぼ同じ評を下している、ということを知る由はなかったが、と
もかく井上はそう結論付けていた。
 青年の目が爬虫類のような鋭さを持つ。
「嘘だと思ってますよね」
「いや、そんなことはない」
 それは事実だ。
「ともかく少し休みなさい。私は別の部屋に移ろうか」
「や、いてくださいよ。怖い」
「いい若者が情けないな。君だって志度君とそう体格は変わらんだろう」
「俺は肩幅あるだけで、文科系のモヤシなんすよ。井上さんにも勝てない気ィします」
「そんなことはないだろうよ。スポーツなんかはやっていないのかね、運動神経もいいんだろう
に」
「運動神経?」
「足が速いじゃないか」
 銀山は不思議そうな顔をしたが、すぐに思い至ったらしく「忘れてください」と苦笑した。
「ま、とにかく、申し訳ないっすけど、腕力面ではまったくっす」
「サークルなんかには参加していないのか」
「文科系なんですって。将棋部っす」
「ほう。好きなのかね」
「そうっすね。頭使ってるって実感できるし、それが反映してくのが面白い」
 そう言って少し皮肉げに唇を歪める。明るく染めた髪と、切れ上がり気味の眦に似合う、どこ
かコンプレックスのようなものを滲ませる表情だった。自嘲的だ。
 井上は腕を組み、更に聞き入る体勢になる。
「頭を使うことが好きか」
「かなあ。本読むのも数学の公式解くのも好きっすね。気持ちいいから」
「ほう」
 勉強のできる、特に理系の才能のある人間の感覚だ。気持ちいい、というのはまさに一番判
りやすい表現である。そこに存在するものをほろほろと分解して、頭の中に取り込み、再び組
み直すのが面白い。学生時代から今に至るまで、大いに文系に寄っている井上にも、それは
少し判る。
 そうだ。しばらく前からそれとなく感じていたのだが、この銀山という青年には、勉強のできる
人間特有の奇矯さ、というものがあるような気がする。
 たとえば、彼の言葉はいちいち伝わりにくい。何か伝えたいのだろう、ということは判るのだ
が、それが何なのかというのがはっきりしない。突飛な行動を取っておいて、きちんと説明しな
いから、周囲はたいそう気持ち悪いまま放っておかれる。なにより彼自身、己の行動を異常で
あると理解しているようだというのが、なお一層不気味な心証を与えてくるのだ。断片的に理解
できる言葉が知性的なだけに、腹に一物あるように見えるし、馬鹿にされているようにも思う。
 根本的に、閉じた世界で生きているのだろう。自分の中では筋道立てた論理を打ち立ててい
るのだろうが、それが周囲に伝わらない。優れた嗅覚はあるのに、それを支える知識や経験、
弁舌が追いつかないのだ。彼はそれをもどかしく感じ、周囲も同じく歯がゆい思いをする。そう
したスパイラルを起こすタイプの人間だ。
 教職を志していると何かの折に聞いたが、たいへんよい志望だ。このタイプの人間が出世す
るのであれば、学会しかないと思う。外の社会に出て来られると迷惑だし、当人も辛かろう。枠
の中にいさえすれば優秀なのだ。
 湯田賀子や志度亮介も、分類するならば頭のいい人間なのだろうとは思う。だが彼らは紋切
り型だ。言動は堅く明快で、賛同するかどうかはともかく、理解はできる。だから意見を違えた
としても、憤りこそ感じるが、気色悪さなど覚えることはない。銀山のようなタイプとは根本的に
違う。もちろんいくらかは、人生経験の貧富も影響してはいるのだろうが、それでもやはり本質
的な部分で異なっていると思う。
 だから井上は、この挙動不審な青年に対して、必要以上に苛立つのだろう。
 その不器用さが鬱陶しい。要領の悪さが腹立たしい。そして、井上の持ち得ない鋭さが妬ま
しい。
 霊感、というものをほんの少しだけ真剣に考える。それはこの手の人間の持つ、動物的な鋭
さが、そうして顕現したものなのではないか。
 だからこそ自分は、そうしたものを過剰なまでに嫌悪してしまうのではないだろうか。
 ふ、と苦い笑いを漏らすと、それまでじっと黙っていた銀山が、殴られる子供のような顔をして
「すんません」と謝った。井上は何も言ってはいないのにだ。
 井上にしてみればこうしたところも気持ちが悪いのである。言葉は疎通しないくせに、こんな
機微だけ正確に読み取る。
 ――それならばやはり、この青年には見えるのかも知れない。何か、井上には見えないよう
なものも。
 そんなことを考えるようになるとは、いよいよ自分も危ないと、少し笑った。
「盤があれば」
 できるだけ優しい声を心がけてやる。
「一局申し出るところなんだがね。段は持っているのか」
「あ、えっと、二段っす。偉そうなこと言ったけど、実際そんな強いわけじゃなくて、指してるだけ
で楽しいっつうか」
「棋士になる気はなかったのか」
「や、とんでもえねっす。そんな才能があるわけでもねえし、趣味で続けてるだけ」
 そう言って手を振る顔が少し煤けて見える。もしかすると志したことがあるのかも知れない。
 井上は白い壁に視線を流し、自分がこのくらいの若者だった時代に思いを馳せる。さほど裕
福な家庭に育ったわけでもない、とてつもない俊才というわけでもない、人よりは学業成績に優
れているというだけの身分であったから、とにかく我武者羅だった。両親は司法の世界に興味
も期待もなく、無難に大学を卒業し、企業様に就職してくれたらそれでいい、ということを常に言
っていた。人様より目立つ必要なんかない、普通の慎ましやかな人生が一番いいのだから、と
いうのが母親の口癖だった。
 別に、見返してやりたいなどと思った記憶はない。ただ無視して、昼も夜もなく勉強に打ち込
んだ。
 甲斐あって現役で司法試験に合格した時も、両親の反応は淡白なものだった。親族が騒ぎ
出してからようやく、自分の息子は優秀であるらしい、ということに思い至った風だった。そうい
う人たちだと井上は知っていた。
 それからは華やかな人生であったと自分で思う。少なくとも仕事面ではそうだ。さんざんろくで
もないことを知ったし、薄汚いこともしたが、それでもここまで来たことに満足していた。学生時
代は地味で辛かったが、それでもまたその頃に戻ったら、もう一度同じ人生を歩み直すと思
う。
 井上は自分の手のみでこの人生を掴み取った、と信じている。それは確かに大学まで進学
できたのも、試験勉強に打ち込むことができたのも、両親が生活を支えてくれたおかげではあ
る。だがそれでも、選んで貫き、見事に果たしたのは、井上自身だ。
 築き上げてきた、と言って恥じない人生であると思う。それを、どこの誰とも知れない輩に、突
然奪われたりしたのではたまらない。
 何があろうと生きて家に帰り、家族にただいまと言って、また仕事に出るのだ。こんな訳の判
らぬ場所で、戸惑いながら死ぬために、何十年も必死に生きてきたわけではない。
 銀山の人生などはこれからだ。だがそれだけに、井上ほどの執着はないのではあるまいか。
しがみつくような実績を築いてきていない。こなさなければならない仕事も、養うべき家族も持っ
ていない。それならば、
 ――それならば。
 ふっと白昼夢のように沸いた考えを振り払う。
「夢はあるのか、銀山君」
 青年が目を見開いた。
「夢? 将来の、ってことっすか」
「そうだ。教職に就くというのは、夢というよりも予定だろう。何かもっと大きな、人生の課題のよ
うなものは」
「えっと、恥ずかしながらそういうのは、あんま考えたことないっす。高校生の頃なんかは色々
考えてたんすけど、今はもう」
「諦めてしまったのかね?」
「ん、諦めたって言うか」
 銀山は口元だけで笑って、こめかみを掻いた。
「俺んちは親が共働きだったんで、子供の頃なんかはよく、親戚の家に預けられてたんすよ。
特に一番世話になったのは叔母の家で。近所だったのもあるけど、独身で一人暮らしだったか
ら」
 急に話が変わった。戸惑ったが、そうかと相槌を打っておく。
「その叔母さんってのは親父の妹で、年は教えたくないって笑ってたけど、キレイな人でした。
結婚してたこともあるとか聞いたけど、あんま詳しい話はできなかったっすね。親父も何も言わ
なかったし、子供心にまあ、タブーなんだろうなーと」
 そこで銀山は少し顔を赤くした。
「まあね、好きだったんすよ。その人の口癖が『お金持ちと結婚したい』ってのだったから、よー
し金持ちになってやろうと思って、将来は医者になろうって決めてた」
「ああ、なるほど。ませた子供だな」
「や、高校生になってもそう思ってた。まあ子供っちゃ子供っすけど」
 笑ったものか頷いたものか迷い、井上は「傍系であっても三親等は婚姻できんよ」とだけ言っ
た。
 知ってますよと銀山は笑う。
「でもせめて、一緒に暮らしてくれねえかなーなんて夢見ちゃってたわけっすよ。本家とうまく行
ってねえみたいだったし、医者になったら駆け落ちしてもいいと思ってました。本気で」
 かすかに震えた眉が、まだ苦悩を引きずっていることを語る。これは本気でのぼせていたの
だろう。
 銀山は俯いた。
「初めて人に話したなあ」
「そうなのか」
「や、だって、話せねえでしょ。実の叔母さんに惚れてるとか」
「そこまで熱を上げていたのに、よく目が醒めたな」
「醒めたっつうか、いなくなっちまったんで」
 声のトーンが落ちた。
「いなくなった、とは」
「失踪っすね。ある日突然いなくなっちまって、それから音沙汰なし。もともと判んねえとこある
人だったから、家の方でも捜索願いだけ出して、それっきりっす。俺はずいぶん探したんすけ
ど」
 結局そのまま消えちまったんですよね、と寂しそうに言った。
「だからまあ、そうなると、医学部に行く動機もなくなっちまったわけっす。学費も高いし」
「なるほど」
 それで夢を見失ってしまった、ということか。
 しかし激しい青年である。難しい女に惚れ、そのために金を稼ごうとしたというのは、昨今見
上げた根性だ。医学を選択したというのもいい。まっとうではないものを、まっとうな手段で手に
入れようとした、その男気を井上は少し気に入った。
 銀山が椅子に背を預けて脱力する。
「今、どうしてんのかなあ、あの人」
「君が金持ちになった頃、ひょっこり現れるだろうさ」
「あー、そういうことしそう。あの人はしそう」
 そうささやかに笑い、小さな声で呟いた。
「ちょっとカコさんに似てたんすよ。横顔のつんとした感じとか」
「いい趣味だな」
「自分でもそう思うっす」
 照れたように視線を逸らす、その表情は、それほど不愉快なものではなかった。



20 見ているだけで腹が立つ  終

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