明かりは復旧していない。
 ぼんやりとした暗がりの中で目を覚まし、わずかの水で顔を洗った賀子は、化粧ポーチを持
って一階へと降りた。リノリウムの床の冷気が裸足に染みる。しんとした空気のせいで、頭が
痛くなるような耳鳴りがした。
 階段の陰で眉毛だけ描いてから、手前の部屋から扉をノックしていく。四番目の部屋で「あい
よ」という低い声が返った。
 なぜか全身汗だくの水野が、扉の隙間から顔を覗かせる。
「何だい」
 その様相に一瞬声が詰まったが、平静を装い言葉を掛けた。
「戻りませんね、電気」
「そうだなあ。ま、一階は問題ないようだし、当座は大事ないだろ。そろそろ明るくなってきたし
な」
「どうされました、疲れておいでのようですけど」
「軽い運動をな。腰のために」
 言葉の調子から、賀子を煩わしく思っているのだろうということが判る。気付かない振りをして
話を続けた。
「何でしょう、この臭いは」
「汗臭いってか。すまんね」
「いえ、そうではなくて」
 水野は細かい文字でも読むように目を細め、賀子を睨んだが、すぐに笑みを浮かべた。やや
ぎこちない表情ではあったが。
「そういや銀山君がさっき、気分悪くして吐いてね。掃除したんだがな」
「あら。大丈夫なんですか」
「大丈夫だろう。気になるんなら見てきてやったらどうだ。その辺にいるんだろうから」
「そうします。失礼しました」
 慌ただしく閉じた扉の前で、賀子はしばらく立っていた。唇に指をあてて考える。
 少し前、銀山の片目証言あたりから、水野は態度を変え始めているように思えた。余裕をなく
している、というか、繕うのをやめはじめた、というように見える。
 必要以上に関わらずにいるのが得策だろう。どうせ逃げ場はないのだ、決裂しても険悪にな
るだけで、いいことは何もない。
 賀子はそもそも、それほど水野の素性を疑ってはいなかった。もちろん胡散臭いとは思うし、
信用するつもりもないが、何と言うのだろう。
 杜撰だ。
 これだけの規模の犯罪を成す組織――あるいは個人――に属する人間なのだとすれば、少
し行動が杜撰なのではないか。銀山のうわ言など、たとえ本当に記憶と符合していたとしても、
馬鹿馬鹿しいと切って捨て、知らぬ振りをすればいいのだ。
 犯罪歴など告白して、あげく賀子らを邪険にしはじめるというのは、どうも妙だ。
 もちろんこの状況下で、アドバンテージは絶対的に向こうにある。疑われたところで痛くも痒く
もない、ということかも知れないが、ならば最初のうちの演技が入念すぎるのではないか。
 あるいは志度がいなくなったことが原因か、とも考えはしたが、それでもまだ井上と銀山がい
る。賀子は一応、二人のことはおおよそ信用していた。
 ドアノブの回る音がして、二つ隣の扉が開いた。
「井上さん」
 顔を出した井上は、賀子を見て少し驚いたような顔をする。それからさっと廊下を見渡して、
手招きしてきた。
「はい?」
「静かにしてくれ」
 賀子が近付くと、井上はするりとドアの隙間を抜けてきた。なるべく音を立てないようにして閉
める。あたりを憚るようなその態度に、賀子も自然と背を丸めた。
「何です? 愛の告白ですか」
「不倫はしない主義だ」
 やけに真面目な口調で言ってから、井上は出てきたばかりの部屋を指した。
「銀山君が寝ているうちに、少し相談しておきたいことがある。水野さんとは会ったかね」
「すぐそこの部屋にいらっしゃいますけど。呼びますか」
「いや。誰にも聞かれない方がいい」
「やっぱり愛の告白ですか」
「私に惚れると火傷するぞ」
 自分で言っておいて照れたらしく、井上は小さく咳払いした。
「冗談はともかく、話を聞いてくれ」
「聞かれたくない話なら、どこか移りますか」
「いや。銀山君が起きた時、一人だと怖がりそうだから」
 そうして井上が語り始めた話を、賀子はしばらく黙って聞いていた。



「銀山君の言うことは、判らないでもないですよ」
 ひとまず聞き終えてから、そう慎重にコメントする。
「水野さんの態度を見ていると、銀山君がそう感じるのも無理はないように思います。確かに多
少は被害妄想の気があるにせよ」
「水野さんは怪しいか」
「まあ前科の件は置いておきましょう。それを言い出したら、知っていた銀山君の方が怪しいん
ですから。水野さんに関しては、怪しいというよりは怖いと思いますね。私は」
「私の見解もそんなところだな。対処としては?」
「ここを出ないのなら、なるべく関わらないようにするしかないと思いますけど。縛り付けておく
わけにもいかないでしょう」
 井上は眼鏡を押し上げて、そうだなと疲れたように言った。
「君は特に気を付けなさい。なるべく銀山君と一緒にいてくれると私も助かる」
「監視を?」
「それもあるが、一人だと怯えるんだよ彼は。用足しにまで付いて来ようとするんだ。大きな図
体をして情けない」
「短気を起こして水野さんのことを襲われても困りますしね。判りました、できるだけ近くにいる
ようにします」
「ああ――でも、彼にも気を付けなさい。君のような女性が好きだと言っていたから」
「あらあら」
「笑いごとじゃないよ。彼は思い込むタイプのようだし」
 と言って井上は、じっと賀子の顔を見た。少し首を傾げてから「ああ」と呟く。
「化粧をしていないのか」
「洗顔シートが切れたので。すみませんね、顔が変わっていて」
「いや別に、素顔でも充分きれいだが。雰囲気が少し違うと思ってな」
「それはどうも。ところで銀山君の話ですけど、水野さんの目のないところで一人になりたい、と
いうのは気になりますね。変なことを考えていなければいいんですが」
 井上は頷いて、胸ポケットから煙草の箱を取り出した。一本咥え、そのまま火を点けずに遠く
を見る。
「家に帰って、書斎でゆっくり煙草を吸いたいよ」
「私はまずお風呂に入って化粧水をはたいて、布団で眠りたいですね。ペットのことも心配」
「一人暮らしなのか」
「実家ですけど、家族はあまりマメな方じゃないので。餓死しなければいいんですが、大丈夫か
しら」
「何を飼っているんだね。犬か猫か」
「大きいトカゲです。レッドテグー。飼いきれなくなった友人から譲り受けたんですが、意外と可
愛いですよ。私に懐いてますし」
 井上が微妙な表情をする。他人のペットの話など聞かされても困るか、と察して、賀子は話
題を変えた。
「上の電気が消えたままですね。明るくなったらもう一度、系統部分を探してみましょうか」
「そうだな。一階まで消えたらたまらん。君、電気配線なんかは判るかね」
「すみませんがさっぱりです。志度さんはそういう分野が得意と仰っていましたか、そういえば」
「水野さんはどうかな――」
 ぴったりのタイミングで水野の部屋の扉が開き、占領していた主が顔を出した。話を聞かれ
たかと身構えたが、老人はちらりとこちらを一瞥しただけで、退屈そうな顔をして階段の方へと
歩いて行った。
 足音が階段を上って遠ざかり、ふう、と二人で肩の力を抜く。
「どうしてあんなに汗をかいているんだ、この冷えるのに」
「腰のために運動なさっているらしいですよ」
 本当かどうかは判らないが、と声には出さず付け加える。井上はなぜかそろそろと足音を殺
しながら、水野のいた部屋の扉を開いた。
 賀子もなんとなく中を覗き込む。他の部屋と同じ、無機質な色と調度で統一された部屋だ。水
野が持ち込んだらしい水のボトルが数本、無造作に転がっている。
 井上は入り口に突っ立ったまま、首を捻った。
「どうしたんですか」
「いや、銀山君がこの部屋を気にしているようなことを言っていたから。他の部屋と変わらんよ
な」
「中にいる水野さんのことが気になっていたんじゃないですか」
 伸びをしながらそう答える。あまり身体を動かしていないことと、先程からひどくなりはじめた
耳鳴りのせいで、首のあたりが重い。静寂の中で耳鳴りを感じることは健常だが、ストレスを溜
め込んでいる時などは、それが異常に気になることがあるのだという。
 賀子にだけ聞こえた足音の件をちらりと思い出して、渋面した。軽く耳を押さえる。
「どうした、湯田さん」
「何でもありません。寝起きなので、少し頭が重くて」
 そこで階段を下りてくる足音が耳に届き、慌てて井上の腕を引いた。
「戻ってきます。閉めましょう、変な因縁をつけられても困りますし」
「うん? ああ、耳がいいな君は」
 それとも私が年なのか、などと言いながら、井上が静かに扉を閉める。
 すぐに水野が階段から姿を現した。先程よりも少し晴れやかな顔をしている。
「ようお二人さん。なんだ長々と立ち話なんぞして。愛の語らいか」
「私は語らおうと思ったんですが、奥様には勝てませんでした。残念です」
「何だおい、甲斐性のない男だな」
 笑いながら水野が側を通り、部屋に戻ろうとする。ドアノブを掴んだところで、ふと思い出した
ようにこちらを振り向いた。
「電気点いたぞ、上」
「え? 本当ですか」
「今、上に行ったら直ってた。よかったな」
 そう言ってさっさと中に入り、扉を閉める。
 残された二人は、色気のない視線を交わした。



21 愛のない語らい  終

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