青年の被害妄想だと、切って捨てることはできなくなってしまった。
 銀山が一階の廊下に降りると、待ち構えていたように水野が顔を出す。ように、というか、ま
さしく待ち構えているのだろう。居座っている部屋の扉を薄く開いておき、足音に耳を済ませて
いるようで、賀子や井上が降りても姿を現す。外の空気を吸いに出るたびぎょっとさせられた。
 用件がある――というよりも、気にしている対象は銀山一人のようで、賀子や井上だというこ
とを確認すると、すぐに部屋に引っ込んでいく。銀山の場合だけは、青年が廊下から姿を消す
までじっと見張っているということを、散歩に付き添ったさい賀子も確認していた。
 参ったなあと、壁に凭れながら井上が呟いた。自分の体臭が不快になってきたということで、
今は背広の上着を脱ぎ、シャツの袖をまくっている。
 場所は二階の、階段に近い一室だ。賀子が使うことに定め、今は中から施錠している。隣の
部屋には銀山が詰めていた。井上はそのまた隣を使っており、つまり二人で銀山の部屋を挟
んでいる。こうなると、三人体制で銀山の監視をしている、と言えないこともなかった。
「参りましたね」
 復唱して賀子は、すらりと足を組み変える。テーブルについてから三十分あまり、同じような
言葉ばかり繰り返していた。
 話題がないわけではないのだが、いかんせん対処法がない。打開の道は現れない。困った
な、参ったな、という、実のない感想ばかりを述べることになる。
 賀子の場合はまだ、その進展のなさが、感情の停滞に繋がっているからいい。しかし井上は
刻一刻と焦燥を募らせているようで、じわじわと目の下の隈を濃くしていた。
「こうなったら、本当に水野さんを縛り上げてみるか」
 数日前であれば、逆さにして振っても出てこなかったであろう言葉が、慎重だった弁護士の
口から発せられる。
「あの人は怪しいよ。何か知っていることがあるなら、とにかく全部吐かせるしかない。でないと
このまま干上がってお仕舞いだ」
「落ち着いてください。そんなことはできません」
「だが」
「殺人犯ですよ。と言うと差別的ですけど、とにかく危ない人でしょう。刺激するのは良くないと
思います」
「そんなことを言っている場合か」
「私には水野さんが、私たちを拉致した犯人だとか、そこに属する人だとかには思えません。そ
うじゃないですか? 落ち着いて」
 井上は眼鏡を外してテーブルに置き、目頭を揉んだ。しばらく黙ってから「すまん」と呟く。
「馬鹿なことを言ったな」
「それにどうせ縛り上げるなら、銀山君の方が先じゃないですか。どうして水野さんの犯罪歴を
知っていたのかと。結託しているということはなさそうですし」
「別の法則で生きる人間に、こちらの法則で説明しろと言っても無理だよ。彼には見えたんだろ
うさ。あの怯えようは芝居じゃなかろう」
「あら」
 これもおそらく、数日前なら出てこなかった言葉だと思う。いや、単に、賀子が井上という人間
をよく知らなかっただけなのかも知れないが。
 それでもどこか、丸くなっている――というよりは、磨り減っている、という気がして心配にな
る。井上の頑ななまでの慎重さは、賀子のような人間にとっては新鮮で、少し眩しく見えていた
のだが。
 もう一度、足を組み変える。運動不足による倦怠感が全身に来ていた。水野に倣い、室内で
身体を動かそうかとも考えたが、エネルギーの無駄遣いだと思い留まった。着替えられないの
だから、余計な汗をかきたくもない。
「あの部屋を」
 ぽつりと井上が言った。
「水野さんのいる部屋を調べてみようか」
「ああ、銀山君が気にしていたという」
「なんとも要領を得ない証言だったがね。水野さんが居座っているというのが気になるじゃない
か」
「ですが、水野さんが居座っているというのが問題じゃないですか。もし何かあるなら明け渡さ
ないでしょうし、そのために銀山君を見張っているのかも」
「――それかな、銀山君の言っていたのは」
「何です?」
「いや、水野さんをしばらく引き付けておいてくれ、と頼んできたんでね。その間にあの部屋を
調べるつもりだったのかも知れない」
「何かあるとしたら、何なんでしょう」
「想像もつかんよ。余計な食料でもあって隠しているとか」
「あるいは、隠し部屋でもあって、誰か匿っているとか、でしょうか」
「隠し部屋?」
 井上は眉を寄せたが、ああ、と頷いた。
「君が聞いたという足音の件か。なるほどな」
 真面目に取り合っていない風であるが、賀子としてもそれほど真剣に言ったわけではない。
 ここで目覚めてから五日になる。さすがにこれだけ時間が経つと、隠れている人間などいな
い、ということが確信できるようになっていた。生きている人間は動くし、その気配は、この静か
な建物で隠しきれるものではないだろう。足音の件に関しても、賀子はいいかげん自信をなくし
はじめている。
 そこでふと、食料のダンボールを見つけた時、水野が繰り返し口にしていた冗談を思い出し
た。
 ――死体が。
 まさか、とは思う。そんなはずはない、とも思う。ここの気温で死体など放置していれば、腐敗
して臭いがするはずだ、と少し現実的なことも考える。
 だがなぜか同時に頭を往来したのは、ひとり忽然と消えた、因幡和枝のことだった。
 最後に彼女に会った、とされるのは銀山だが、彼は別に、出て行くという言葉を聞いたわけで
はない。
 霊感があると自称する彼が、あの部屋は何か変だと、そう言ったという。
 まさかとは思う。そんなはずはないとも。しかし。
 賀子はゆっくりと唇に指をあてた。
「見てみましょうか」
 一度考えてしまうと、なかなか拭えない。
 井上は神妙な顔をした。
「水野さんをどうする」
「やましいことがなければ見せてくれるでしょう。渋るならやましいことがあるんです。その時こ
そ縛ればいいわ」
「さっきと主張が変わっていないか」
「そうかしら」
 もし、万が一、水野が因幡を殺害していたとすれば、その時こそ無視してはいられない。刺激
してはいけない、などと言っている場合ではない。危機はすぐそこにまで迫っていることになる
のだ。
 まだ井上には言わない。根拠など何もない、ふっと思いついただけの妄想だからだ。
 賀子はブラウスの袖をまくって立ち上がった。
「行きましょう。銀山君はどうします、呼びますか」
「要らないところで拗れても困る。放っておこう」
「では何かあったら井上さんが守ってくださいね。もう投げる靴もありませんから」
「あまり頼りにされても報えないよ。まあ君が人質に取られたら、銀山君と交換してもらえるよう
交渉してみるが」
 自分と交換、とは言わないところがこの男らしい。賀子が笑うと、井上も少し唇の端を持ち上
げた。



 一階に降りた途端、やはりすぐに水野が顔を出してきた。井上と賀子の姿を確認し、さっさと
戻ろうとするのを、井上が呼び止める。
「水野さん」
 扉の前に立ったまま、老人は静かにこちらを見返す。賀子らが近付いて行くと、少しだけ右腕
を持ち上げた。その小さな仕草に緊張感がある。
 井上が正面に立ち、ゆっくりと言葉を述べた。
「部屋の中を見せていただいて構いませんか」
「強制捜査か」
 笑いながらそう言いつつ、扉の前を退かない。目線の高い井上を不遜に見上げる。
「捜査令状は?」
「任意捜査です。ご協力いただいた方が今後のためだと思いますよ」
「弁護士を呼ばせてくれ」
「ウィスタリア法律事務所の井上と申します。このたびはお引き立てありがとうございます」
 どこまで冗談か判りかねるやりとりを経て、水野は目を細めた。
「何だってこの部屋を見たいんだ。銀山君が何か言ってたか?」
「そうです。拝見して構わないでしょうか」
 水野はしばらく井上を睨み、それから探るように賀子を見たが、存外あっさりと頷いた。
「お前さんがたにも話そうかと思っちゃいたんだ。好きにしな」
 井上がその言葉の意味を質している間に、賀子は素早く扉の中に入った。
 ざっと室内を検分するが、特に変わったものは見当たらない。テーブルや椅子は他の部屋に
あるものと同じだ。壁や床も、大人しく白で統一されている。
「壁だよ。奥の」
 水野の声が飛んでくる。その言葉に従い、奥の壁に近付いて、はっと気付いた。
 白い壁に、ごくうっすらと、細い線が浮いている。目と鼻の先まで近寄らなければ判らないほ
ど、巧妙に壁に紛れているそれは、扉のような形をしていた。
 ――隠し部屋。
 息を呑んだ賀子に、井上と水野も近付いてきた。
「これは」
 井上が壁を見上げ、素早く水野に視線を送る。
 水野は一歩前に出ると、その扉に手を置いて、器用に力をかけた。取っ手のないその扉は、
三階のクローゼットと同じように、ゆっくりとスライドした。
 そうして目の前に現れた、異常な光景に、賀子は目を丸くする。
 上から下、下から上へと眺め、ただ呆然とする。井上もそれを見つめながら薄く口を開き、何
か言おうとしたようだったが、結局黙ったままだった。
 死体は存在しなかった。二畳ほどのスペースのある、その隠しクローゼットを埋め尽くしてい
たのは――

 黒く物々しい、絶縁ラバーか何かの素材でコーティングされた、無数のコードだった。

 鉛筆程度の細いものから、賀子の腕ほどあるものまで、数十本がうねうねと絡み合い、その
空間に詰まっている。天井から垂れ下がっているものもあれば、床から生えるようになっている
ものもある。いずれにせよ他の場所と繋がっているのだろう。
 身を屈め、よく目を凝らすと、コードの隙間にパネルのようなものが見えた。奥の壁の、ちょう
ど中央あたりに取り付けられている。材質はプラスチックだろうか。全体としては文庫本ほどの
大きさで、半分は液晶画面だ。その下には1から9までの数字が記されたボタンが並んでい
る。ちょうど携帯電話を大きくしたような外観だ。液晶にはヨーロッパの言語と思われる文字が
並んでいたが、賀子には読めなかった。3、という数字だけが識別できる。
 井上が隣に来て、同じように屈み込む。背後の水野が低い声で言った。
「どう見ても電気類の管制パネルだ。文字は読めんが」
「ドイツ語ですね」
「井上さん、読めるのか」
「いえ。ですが管制パネルだというのは間違いありません。この表示は、三階の廊下は問題あ
りません、という意味か」
「読めるじゃねえか」
「雰囲気ですよ」
 そう言って水野を振り返る。警戒を隠さない表情を浮かべていた。
 井上が疑問を発する前に、水野が肩を竦める。
「停電した時、とりあえず一階を見て回ったろ。その時見つけた」
「よく見つかりましたね。こんなものが」
 賀子が言葉を挟むと、まあ気を付けてたから、と言った。
「管制室みたいなもんがない以上、どこかの隙間なんかに機器やら電線やらを這わせてるん
だろうと思ってな。こんなにまとめて置いてあるとは思わなかったが」
「なぜ黙っておられたんですか」
 棘を込めて井上が問う。
「こんなものを見付けたとは、一言も仰らなかったでしょう」
「だって、停電してすぐこんなもん見付けたなんて言ったら、お前さんがた怪しむだろうが。俺は
元々警戒されてるようだしな。今だって疑ったろう、よくこんなもんに気付いたなって」
 それは確かに、そうだった。すぐに報告されたら怪しんだ、というのも、おそらくその通りだっ
たろう。
 しかし、それで黙っている、というのも同じくらいに疑わしい。
 追求しようとする井上を手で制して、賀子は話の切り口を変えた。
「復旧はあなたが?」
「ああ。しばらく待っても直らなかったから、色々弄ってみた」
「表示が読めないのにですか」
「雰囲気でな」
 井上の言葉を繰り返して、水野は天井から下がっている太いコードを見上げた。
「だが、お前さんがたには話そうと思ってたよ。そろそろ」
 しんと空気が静まると、また耳鳴りがした。
 視線をコードに留めたまま、水野がぽつりと言う。
「停電が起きた時、銀山君は寝てたろう」
「ええ」
「彼は起きてまず、この部屋に来たよ。どうしたんだと聞いたら、何か変だったから、なんてこと
を言ってた」
「ああ」
 なるほど、と得心する。水野を信用するならば、それは銀山は怪しいか。まして一度、自分し
か知らないはずの脛傷を見透かされているのだ。
 賀子は部屋を見渡し、少し考えてから言った。
「クローゼットの分、部屋が狭いんじゃないですか。それに気付いたとか」
「いや、見つけた時に調べたんだが、広さは同じだけ取ってあるんだよ。ちらっと見て気付くわ
けはないと思うね。あんたも気付かなかったろう」
 隠しクローゼットの探知は霊感の管轄なのだろうか、などと馬鹿馬鹿しいことを考えながら、
賀子は片方の耳を塞いだ。耳鳴りが酷くなっている。
 井上が心配そうな顔をしてこちらを見た。
「どうした。頭痛かね」
「耳鳴りがするだけです。大丈夫」
「耳鳴り?」
 と繰り返して、井上はじっと黙り込んだ。それからクローゼットの中に頭を突っ込み、耳を澄ま
せるようにする。しばらくそうしてから賀子を振り向いた。
「湯田さん、ちょっと、同じようにしてもらるかな。中に顔を」
「はあ」
 指示に従い、上半身を傾ける。狭い場所に頭を入れると、さらに耳鳴りが大きくなった。
「耳鳴りはどうだね」
「どうと言われても、何でしょう、酷くなった気がしますが」
「それなら耳鳴りと言うか、機器の発する音が聞こえているんじゃないのか。ここ以外の場所で
も感じるか?」
「え? ん――」
 外でも耳鳴りを感じはするが、確かに言われてみれば、この部屋に入った時には酷くなるよ
うな気がする。今など両耳を押さえつけたいほどだった。
 水野が怪訝そうな顔をする。
「音なんか聞こえんよ。俺はそこまで耳が悪いってこともないんだが」
「私にも聞こえませんがね。若いうちにだけ聴こえる周波数帯というものがあるんですよ。消音
にしたテレビから発している音なんか、子供のうちはたいがい聴こえているらしいです。どうだ
ね湯田さん」
 言われてよく気をつけてみると、確かに、音という感覚であるようにも思える。賀子は頷いた。
「そうですね。そう言われなければただの耳鳴りだと思いますけど、確かに」
 井上はクローゼットを閉じた。それでもまだ音は耳の奥で鳴っている。
「聴こえます」
 ふむ、と水野が唸った。井上に視線を向ける。
「銀山君にも聴こえたってことかい」
「それは本人に確認しないと判りませんが、おそらくそうだと思いますね。音というよりは体性感
覚の領域でしょうから、うまく説明できなかったのでは」
 検証しているらしく、水野は険しい顔をして、壁に同化した扉を見る。
 同じものを眺めながら、井上が呟いた。
「なぜわざわざこんな風に作ったんでしょうかね。隠す必要のあるものですか」
「知らんが、用途によってはそうなんじゃねえのか」
「用途?」
「たとえば明かりがあるのとないのじゃ、随分こっちの精神的負担は違うだろ。まあ寝る時なん
かは、かえって暗い方がありがたいんだが、ずっと暗いってのは参る。そういうのをコントロー
ルするのにも使えるんだろうし」
「はあ、私たちを参らせるためと」
「銀山君がシロだとするんなら、今回はそういうことはしないんだろうが」
 「今回?」と、井上と賀子の声が重なった。二人で視線を合わせてから、賀子が発言権を得
る。
「前回や――あるいは次回があるということですか」
「目的なんぞ判らんが、こんな砂漠にこんなもん建てて、犯罪に利用しないってことはないと思
うね。遭難小屋でもないだろう。掃除も行き届いてる」
「目的なんて判りませんが、私たちを放置するために建てたのでは?」
「三階建てにする必要があるか? ほとんど全部の部屋にテーブルと椅子を置いた理由は? 
なぜ水も来ないのに水洗便所がある?」
「なぜですか」
「知らんよ。だが俺たちにとって意味がないってのは間違いない。だから、他の人間にとって意
味があるんだろう。俺が考えるにこれは、多目的犯罪施設だ。犯罪以外のことにも使われるの
かも知れんが、まあ主目的はろくでもないことだろう。まともな人間が砂漠のど真ん中で何をす
るってんだ」
 黙り込み、考える賀子に代わり、井上が問いを発する。
「ある程度解体すれば、この建物は運べるのでは?」
「そうかも知れん。まあ全部は推測さ。袋のネズミには迷路の全体像なんか判らん」
 井上がもう一度クローゼットを開いた。窮屈そうに身を屈め、コードを掻き分けてパネルに触
れる。
「通信機器はないのでしょうかね。これと同じようにどこかに隠されていたりということは」
「電力も太陽光で完全な自給自足のようだし、外部との接触機関は望み薄だと思うがねえ。あ
ったとしても使えるようになってるわけがないだろう」
「狼煙でも焚きますか、いよいよ」
「少々のダンボールくらいしか火種がないんだよな。志度君らがうまいこと救助を呼んでくれた
らいいんだが」
 期待はしていない口振りだった。賀子はまだ、それなりに救助の希望を持っている。何しろ身
元のしっかりしている日本人が、まとめて七人、忽然と消えているのだ。日本の年間行方不明
者数を考えると、一時間あたり十人の人間が失踪していることになる――などという話を聞い
たことはあるが、それにしても今回のようなケースはそうない、と思う。素人考えだが。賀子は
翌日も通常通り出勤する予定であったし、志度や井上もそうだろう。因幡や水野には家庭があ
るし、奈津や銀山は学生だ。消えれば必ず、誰かが気に掛ける。
 特に奈津の存在は、こう言うのも何だが、自分たちにとって幸いかもしれない、とも考えてい
た。日々山のように行方不明者の出る中で、警察にまともな捜索をしてもらえるのはほんの一
握りであるらしい。絶対的に人手が足りないのだ。事件性が明らかになっているのならともか
く、不慮の事故や、本人の意志で姿を消した可能性もある以上、いちいちかかずらってはいら
れないのだろう。
 しかし旭奈津の家は大企業だ。そのうえ姿を消した当人は中学生の少女である。失踪時の
状況も相まって、事件性には申し分ない。また警察の力添えがさほど期待できなくとも、民間に
捜索を依頼することもできる。なぜ普通の人間がそれをしないか、といえば、つまるところ膨大
な費用が掛かるためだ。捜索の有用性は、ほとんど人の数で決まる。だが人を雇うには金が
掛かる。一度山狩りをすれば、ひとつ山を売ることになる、などという皮肉を聞いたこともあっ
た。
 アサヒ電気はその金を持っている。それはさらに、客観的には営利誘拐の可能性もある、と
いうことだ。警察は動くだろう。民間組織も利用するかも知れない。
 犯人たちの側もそれを踏まえているはずだ、ということは考えないようにしていた。
「相手方の本国はドイツということでしょうか」
 間つなぎに聞いた賀子に、水野が素早く「いやあ」と応じた。
「わざわざドイツ語表示ってのが臭いだろ。英語にしておきゃいいのに」
「まあ、それを考えたところで、お腹の足しにもなりませんしね」
「そういや、そろそろ食事らしい食事をしたいなあ。寿司を食いたいわ」
「やめてください、そういうのは移るんですから」
「俺はな、いつ死んでも仕方ねえって覚悟してたんだが、せめて最後に好きなもん食うくらいの
自由はあると思ってた。たまらんな」
 いやに含蓄のある口調で言って、ちらりと背後を気にする仕草を見せた。
「ま、こいつにもそんな贅沢させてやれなかったしな。因果応報ってか、仕方ないんだろうが」
「こいつ?」
 と珍しく、井上が不用意なことを聞いた。すぐに自分でも気付いたらしく、失敗したという顔を
する。
 水野がくっと喉を鳴らした。笑ったのだろう。
「すまんね。別に思わせぶりなことを言うようなつもりじゃなかったんだが」
 水野はかくしゃくとしていて若々しい。顔立ちはわりあい彫りが深く、色素の薄い瞳にも雰囲
気があり、黙っていれば充分に見目はいい。
 だからどこか、陰の落ちた表情が、俳優の芝居のように見える。それが怖かった。ただの暴
徒などより得体が知れない。
 長い沈黙を置いて井上が呟いた。
「手詰まりか、結局」
 耳鳴りが酷い。賀子は耳を塞いだ。



22 耳鳴り  終

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