今までの人生で、これほど誰かを憎んだことはない。

 紫色の小さな花が手描きであしらわれた、優雅な白封筒を、しばし見つめる。何を考えて絵
など描いたのだろうか、とぼんやり考えながら、厚みのあるその封筒を裏返した。
 差出人の署名は繊細な楷書体だ。絵も文字も、貼られた切手の柄までも美しい。
 そういう女なのだ。センスが良くスマートで、非の打ち所を与えない。中の便箋にも封筒に合
わせた絵を描き、仄かに匂いがする程度に香水を吹き付けているのだろう。
 志度亮介は、この女のそうしたところが、たまらなく憎かった。
 サイドボードから真鍮のペーパーナイフを取り出し、一人で寝るには広すぎるベッドに腰を落
とす。
 間違っても中身を傷つけないよう、丁寧に封筒の脇へと刃先を入れ、すらりと開封した。
 きっちりと三ツ折にされた便箋は無視し、同封されていた写真を手に取る。八枚。先月より多
く、それだけは感謝した。
 被写体はすべて同じだ。六歳になったばかりの娘、志摩子が、笑ったり澄ましたりしている。
どれも頭が痛くなるほど可愛らしい。今すぐ抱きしめて、あの「おとうさん」という高い声を聞きた
い。
 何かよほど嬉しいことがあったのだろう、屈託なく口を開けて笑う一枚に、志度の目元もかす
かに緩む。これを写真立てに入れようと決めた。そのふっくらとした頬の線を、親指でゆっくりと
なぞる。表情はあどけないが、きりっとした眉のあたりは自分に似ていた。親の欲目を除いても
抜群に可愛らしい顔立ちの娘だと思う。志摩子の母親に関して褒める部分があるとすれば、何
より志摩子を産んだことと、その整った目鼻立ちを移したことだ。志摩子は美人になるだろう。
またどちらに似ても頭の良い子になるはずで、本当に成長が楽しみな娘だった。
 ――それを。
 空になった封筒を睨みつける。
 半年ほど前から、志摩子の母親――志度の元妻、めぐみが、月に一度と定めた面会の約束
を果たさないようになっていた。
 家業が忙しいだの、志摩子が体調を崩しただの、その都度いろいろと言い訳をしているが、
方便だということは明らかだった。このままなし崩しに会う機会を減らして行き、最終的には完
全に絶って、志摩子に父親を忘れさせようという魂胆なのだろう。そういう女だ。すべてを自分
の手のひらの内で把握し、管理していたいのだろう。
 めぐみの父が先日、権利関係の電話ついでに漏らした話によれば、めぐみの両親――志摩
子の祖父母が育児に関わることも、いっさい拒んでいるらしい。
 それが志度にはたまらなく不安だった。めぐみは端正で器用な女だが、他者への共感性や
思いやりというものを極端に欠いている。それがスマートさとして発露し、外においてはたいが
い好意的に取られるようだが、同じ家に暮らす人間にはたまったものではなかった。子育てに
向いている女であるとはとても思えない。
 ――めぐみは外で働き、志摩子の育児は祖父母に任せるものだと思っていたから、ひどい
苦渋ではあったが、最終的には志摩子を渡すことに同意したのだ。なにしろ志度は仕事の忙し
い時期であるし、こちらの両親は海外にいる。男親が一人で女の子を育てられるか、と問われ
れば、苦しいところだった。
 そこで決断を誤ってしまった。というよりも、明らかにめぐみは策略を巡らせていた。すべての
場面で自分に有利になるよう、ただし嘘だけは一切つかずに、巧みに都合のよいことを言っ
た。祖父母のもとで育てると繰り返していたが、確かに思い返せば、彼らに育児を任せるとは
言っていない。本当に、根から、そういう女なのだ。
 実家に身を寄せためぐみはすぐに、志摩子の世話に専念すると言って、結婚前から続けて
いたデザイナーの仕事を辞めた。実家のギャラリーの従業員になったと言っているが、実際の
ところはたまに手伝いに入る程度らしい。
 どんな教育をしているか判ったものではない。めぐみという女はすでに、志度の中で、悪魔の
ような存在になっていた。なにも信用できない。愛しい娘を預けていることが不安で仕方ない。
 そんな女を、かつては愛していたということが信じられなかった。強く勧められていた見合い
を断ってまで、あの女と恋愛結婚をしたという、その過去が自分でも理解不能だ。
 ベッドに投げ出していたペーパーナイフを手に取る。ひやりと重い感触は、あの女に対する感
情に似ていた。いや、めぐみという存在自体が、このナイフに似ているのか。デザインはシンプ
ルで美しい。機能性にも不足はない。だが、触れればいつも冷たい。
 細身の持ち手を握り締めて、マットレスを軽く突いた。刃先は丸めに矯められているが、それ
でもシーツに小さな裂け目ができた。
 そこにもう一度、今度は少し高くから振り下ろし、ナイフを突き立てる。
 黒く沸き立つ感情が流れ出してくるような気がして、志度は目を閉じた。
 これほど誰かを憎んだことはない。志度はもともと、他人に対してそう強い感情を抱くことはな
い。今までに付き合ったどんな女に対しても、さほど執着したことはなかった。だからこの思い
をどうしたものか判らない。離婚後の話し合いの場で一度だけ、強い言葉をめぐみにぶつけて
みたことがあるが、結局さらりと正論で交わされただけだった。
 これが憎しみである、と知ったこと自体が、つい最近だった。志摩子を取られ、それを恨みに
思っている――と自分では解釈していたのだが、それも違うと気が付いた。
 もはやそうした因果の問題ではないのだ。志摩子が帰ってきてもこの澱みは消えない。
 めぐみが憎い。いつから発生した感情なのか、それは自分でも判らない。もしかすると、出会
った頃、結婚する以前から抱えていた思いなのかも知れなかった。かつてはそれを愛情だと勘
違いしていたのではと、そんなことを考えるほど、めぐみへの感情は黒く重い。
 そう。因果の問題ではないのだ。何か原因があるというわけではないと思う。
 ただあの女の存在が、疎ましく、憎くて――憎くて仕方がないのだ。
 めぐみが離婚を切り出したのも、本当は、志度のそうした深層意識に気付いていたためでは
ないか、と考えることがある。あの女は他人の心境などに興味はないが、自分に降りかかる災
厄には敏感だ。
 ――志摩子。
 本当に、心から、娘に会いたかった。そう、志度は負の感情を他人に向けることに慣れてい
ない。だから御す方法も判らず持て余している。このままでは何をしてしまうか判らない。だが
志摩子の顔を直接見られたなら、あの天使のような声を聞けたのなら、この薄汚い感情も、い
くらかは洗い流される気がする。
 ナイフをさらに強く握り締める。振り下ろした。



0−1 志度亮介  終

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